WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

2018年の施政方針演説について

安倍首相様が施政方針演説とやらを昨日したらしい。

今回の首相演説は明らかに野党弱体化のために言っておりますね。

野党が批判できないように、安倍首相様は本音では「不本意」なのかもしれないが、それでも憲法を変えたいから野党が言いそうなことをたくさん言っておりますね。

 

そこで仕方がねえから、

野党のために議論の進め方を考えてみた。

今のままでは反論も批判もできないし、安倍首相様の手のひらの上で転がされる。そうであるなら、憲法3項に自衛隊追記という安倍首相様が考える憲法の「理想」が実現されてしまう!!

そう、安倍首相様は施政方針演説で憲法は理想を記載するものであるーー憲法9条を守る会と同じことを言っておられる! 

つまり、その「不本意」を暴いて、対立軸を作ればいいだけなのだ。以下のように問答をすればいいのである。

 

野党:我々は現憲法でも充分理想だと考えているが、首相はどの条文が<理想ではない>と考えているのか。もしかして、自衛隊を記載することが理想だと思っておられるのか。では、9条1項、2項との整合性はどうするつもりなのか。いや、我々はその1項、2項こそが最大の理想だと考えている。

 

首相:(ぐぬ)自衛隊違憲だと憲法学者は言っておる。

 

野党:それはわれわれも認識している。ということは、自衛隊を明記することが理想なのか? 違憲であるという理由は、「現実」として自衛隊がいるからであって、それと整合性を立たないからではないか! 自衛隊を縮小していくことこそが、われわれ野党が考える理想である!

 

首相:(ぐぬぬ)われわれが考える理想は、戦後のアメリカの押し付け憲法を変えることでして・・・

 

野党:それはつまり明治憲法を理想にして、戦前に回帰し、また戦争をする歴史こそが首相の考える憲法の「理想」なのか! そんなものは、理想ではない。地球を俯瞰する外交を目指すのであれば、国連憲章に記載してある通りーーわれらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救いーー戦前の明治憲法こそ理想とは間逆な憲法なので、破棄すべき理想ではないか!

 

首相:(首相の気持ちで考えてみよう!)

 

 

 

愛とは、相手の気持ちに立つことである。

理想と現実〜〜日常の現実を超えて〜〜

現実と聞いてどういうイメージを思い浮かべるだろうか。

・日々の繰り返し

・平凡

・無機質

・つまらない

 

逆に理想はどうだろうか。

・お花畑

・到底かなわない夢物語

・空想

・簡単に言える

 

これら「イメージ」だけでは議論なんか成り立つはずもないから、ぼくはもう少し現実にのっとって、「具体」的に数学、物理、工学(技術)を借りて「学問」的に語っていこうと急に思ったのだ。

そこでひとつの例として述べていこうと思うが、例が何かと言って浅いがそれはツッコまれる前にこちらで防御しておこう。(そういえばと思い出した。)このブログでは炎上はくだらない些細のツッコミばかりが原因となっていたので、カウンターとして始めたのが由来だったんだと。

と言っておいて、高校で学んだ物理では、摩擦や質量のない状態で「理想」値から数式にし、教科書的に問いに答えているのは承知の事実だとは思う。ただ、現実はそんな状態はない。ここをツッコんでもあまり意味がないことでも同時にある。つまり、理想は頭のなかの「イメージ」であって、そこから現実はどうなのかと考えていくのであって、それ以下でもそれ以上でもない。そこから「応用」(=現実)として工学(技術)が位置づけられているのである。つまり、物理学のように理想状態であればいまごろ世界は「ユートピア」になっていたであろうが、現実は摩擦はあるわ、質量はあるわ、人間の理論(想像力)では到底及ばない「間違い」は起こるわで、現実は大変なんですわ。

ではなく、そんな現実でもなんとか<理想に近づけよう>と工学(技術)は日進月歩しているのである。そんな事実を無視して、上記の二項対立で争っていても無意味なのは分かってもらえるだろう(分かって下さいな)。

この例を踏まえた上で、憲法についてはどうなるか、ぼくと共に考えよう!

 

現実しか生きられないが、理想にだって近づけるのが我々人間なんだよ。マジで。

 

 

 

頑張ろう、愛。

 

 

ものづくりの数学のすすめ 技術革新をリードする現代数学活用法

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ロボットの歴史を作ったロボット100

ロボットの歴史を作ったロボット100

 

 

ひとりの「現場にいる」技術者として語らせてもらう。

これから書くことは福島第一原子力発電所事故とは一切関係がなく、もう少し抽象的なことだということは先に述べておく。

 

「仮に」人類史を揺るがすような大事故が起こったときに考えなければいけない問いとは何だろうか。

ぼくは<二度と同じような事故を起こさないためにはどうしていくことがいいのか>という点こそ第一義とするべきだと思う。

そうであるときに現場の工場の作業風景を「なぞる」だけで、この問いに「応え」ることになっているのだろうか。現場にいる人々の「頑張り」(ぼくももっと頑張らにゃいけんなあ)を世に知らせるだけで、何か変化(=解決に結びつく)があるというのだろうか。

ぼくはこれに対しては懐疑的ではある。

 

最近、現場にいる技術者兼労働者として大変身につまされた思いをした番組『BS1スペシャル「原発投下 知られざる作戦を追う」』と雑誌『世界』(原発事故はどこまで究明されたかーー「吉田調書」を超えて)のふたつがあるのでぼくの現場視点から考えた点を述べることにする。

前者はある目的を遂行するときに決定が下してある目的を変更するのは組織内にいると大変難しいという点が大変印象に残り、ぼくはいまだに考え続けている問いでもある。つまり、目的を遂行するという「流れ」のなかでそれを「止める」方法は当事者たちだけで果たして可能であるのだろうか、という問いである。これは同時に、決定後に起こした過ちや失敗を二度と同じ轍をふまないためにもすべてを明らかにし第三者が介入し調査が必要であろう。そうすることが、次に同じ場面を現場で出くわしたとしたときに、この反省が頭をよぎり目的を遂行するという「流れ」に対してブレーキになるのではないだろうか。

後者は今後福島第一原子力発電所事故の「ような」事故が起きた場合にーー現場に居合わせていた場合にーーぼくはどういう決断ができただろうかというのを考えながら読んだ対談であった。こんなぼくが現場に居合わせていたときに、冷静な判断は果たして可能だろうか。そして事故後の収束を当事者「主体」で反省しつつも事故の究明をすることができるだろうか、ということを考えさせられた記事であった。これは同時に、この記事のようにジャーナリズムという行いが事故に対する究明にもなり、現場に対する反省にもつながるのではないだろうか。ぼくが事故現場に出会ったときの判断材料としてこの記事を参考にし同じ過ちをしないための現場努力ができるのではないだろうか。

 

この2つの例で大事なのは事故が起きてしまったときに「俯瞰」できるのは、こういうことを考えている当事者以外がいたということが現場に対して影響を与えれるということではないだろうか。同時に、現場にいるだけでは「気付けない」ことも多いにあるということではないか。

 

そしてこういうぼくの「経験」があるからこそ、ぼくは当事者「主義」に対して批判的だし、最初の問いである<二度と同じような事故を起こさないためにはどうしていくことがいいのか>に対して答えを出して(求めて)いくためにも、「第三者」の自由な考え、調査、言論、報道が必要であり「総括」ができると考えているのである。

 

 

愛とは、開かれていると同時に、受け入れることである。

きちんと学歴について語ってみたい。

日本で偏差値が高いと言われている人たちというのは確かに優秀な人が多いのかもしれないんです。ただその優秀さを「誰が」判断しているのか、に尽きると思うんです。

つまり分野や技術、芸や能、記憶、様々な観点から観たときに、その優秀さを判断しているのは「人間」なんですよね。これに対して答えは、優秀さを判断するのは表層的であろうとも中身であろうとも「人間」でしかないとも言えるんです。

 

もう少し詳しく言っていくと、周りが優秀だと判断するからその人は優秀なのか、その人自身が優秀なのかは誰にもわかりませんし、つまり、どういう「基準」で優秀さを判断しているのかは環境でしかないとも言えるとも考えられるんです。つまり、もっといえば、いまこの国(世界でもいいが)の支配層には確かに学歴が高い人は多いのかもしれませんが、その学歴を担保しているのは周りなのか、当人なのかという根拠はありませんからね。いやぼくは学歴社会を批判したいのではなくて、こういう状況であるということを言いたいだけなんです。それに対して、けしからん、現状のままでいいと判断するのは各々の自由で良いとは考えているし、今後もそういう状況判断していくだろうとも思いますね。

 

時代が変わっていたら「ただの人」だった可能性だって多いにあるわけですし、なにが因果かは誰にも分かりませんからね。

 

ただ、愛の因果は誰にも判断はできません。!!!!!

東京に江戸城を建設する「意味」ーー文化保守のためのTOKYO

これから書くことは、もし実現したら、こういう捉え方(もしくは、「意味の復活」)をするかもしれないという程度に読んでもらえたらと思う。

 

現在、江戸城を再建しようとしている<認定NPO法人江戸城天守を再建する会」>という団体が存在しているのはご存知だろうか。(詳しくはこちらの記事

これが実現したら、東京という都市の意味合いがずいぶん変わってくるのではないかと想定している。つまり、江戸(=東京)には、徳川家康以前の歴史がない(もちろん、庶民、農民は住んでいただろうが、「文化」としての歴史において)ため、およそ400年間の歴史があるはずが、どうも前近代(明治以前)と近代(明治以後)で切断されているのではないか、という印象がぼくには感じられるのだ。また、東京では、明治以後の文化を守ることこそが「保守」となっているため、本来の東京においての「保守」が分かりにくくなっているということでも同時にある。それが、江戸城の再建によって、約400年という「意味」が出始めて、その約400年こそが、文化としての「保守」になるのでないだろうか。

ぼくがこのブログで強調したいのは、東京にはもちろん江戸時代があったということであり、江戸城の再建が実現したとするなら、下記にあたる「観光スポット」にも「文化の歴史」の意味が復活してくるのでないだろうか。少し分かりにくくなっているが、要するに下記の「観光スポット」を、「断片的な歴史」ではなく、「連続の歴史」に解釈ができるようになるのでないかと考えられるのだ。では、その「観光スポット」を順とか関係なく、まことに勝手に、挙げていく候。

 

神田明神

→江戸時代以前からある神道の神社である。相対的に某神社の意味が弱まるのではないだろうか。神田明神内にある資料館には、江戸時代の町の地図があった(ように思われる。記憶が定かでなく、申し訳ない)。ちなみに、鏡、鳥居は江戸城(現、皇居)の方角に向いている。

 

日光東照宮

言わずもがなではあるが、徳川家康公が御祭神となっている。東京にはないが、こちらも江戸城(現、皇居)の方角に向いているため、江戸とは切ってはきれないと思う。

 

湯島聖堂

リンク先にあるように、幕府直轄の学校だった場所である。

 

東京大学の赤門

リンク先を読んでもらえば分かるが、加賀藩前田家の門である。いまの「偏差値教育」と違い、東大が歴史と伝統が感じられる学びの場となるのでないだろうか。(エリート教育とは縁がない、ぼくより。)

 

津波が来たことを知らせている碑(東京の下町にある)

津波てんでんこ』の著書のP.13に下記のように記載してある。

1791(寛政3)年に発生した「高潮つなみ」の後、幕府によって建てられた「浪除碑」によるもの。東京の下町一帯は歴史的に高潮つなみの危険地帯である。

 

・落語

無印都市の社会学』(P.260)によれば(この著書を読んで知ったのでこちらから引用しておく)、17世紀後半に京都・大坂・江戸で同時発生的に生まれたとある。その後、19世紀後半になって、江戸と大坂で寄席興行がされるようになったのが、今に至る。

 

・歌舞伎

リンク先によれば、江戸時代以後らしい。詳しくはぼくも知らないので、興味があれば勉強をしてみてはいかがだろうか。

 

豊島屋本店

居酒屋の誕生』に「酒を安く居酒させて評判を呼ぶ酒屋が現われた。」(P.26)と書かれてあり、ここから現在の居酒屋の原型となるものが始まったとのこと。

(リンク先のHPに書かれてあるお酒、おいしそうですね。ぼくも、今度飲みに行きたい!)

 

と、挙げればキリがない(思い出したり、新たに発見したら、このブログに追記していく予定)が、特に神田周辺にある湯島聖堂と東大の赤門が前近代と近代の接続箇所になっているのがよく分かる。

これを機会に、東京には400年の歴史があるということを知り、その「歴史をつないでいく」こと、「本当」に守るべき象徴はなんなのか、東京において「文化保守」は江戸以後から考える必要があるのではないか、などをいま一度考えてみたらどうだろうか。

江戸城が再建されたら「本当の意味」(経済的な「都会」という意味ではなく、文化的な「都市」として)で、世界的な視点に立った「TOKYO」になるのでないかと願って。

 

 

 

愛とは、壊すことではなく、

「ともにつくり、ともに守り、ともに見つめていく」

ことなのかもしれない。

by.やなブクロ

 

 

太田道灌という人物が1457年に江戸城を建設したらしく、歴史は「ここからスタート」としてもいいのかもしれません。(今後の課題)いずれにしても、東京には明治以前があったので、そこからの「文化」を視野にいれる必要があるという主張のブログには変わりませんので、上記文章は変更しません。(2015年2月20日に追記)

※豊島屋本店のリンクを追加した(2015年7月29日に追記)

おこちゃまの自己実現とテクノロジーの発展はつながっている?!

先日、知人(と濁す)の3歳くらいのお子さんを眺める機会があったのだが、そのおこちゃまは電車のおもちゃが好きみたいで、すごくそのおもちゃで遊んでいた。ここから、ぼくはある仮説を思い浮かべ考えるようになってきている。その仮説を述べるまえに、下記の図を見てほしい。

 

f:id:omoikiti:20140909191011p:plain

 

みなさんは覚えているだろうか。これは、小学校くらいでマスターできる、理科や算数のテスト対策で覚える図だ。速さ、時間、道のりがあり、これらには等式(以前は方程式と書いていたが、意味が異なるため訂正)が成り立つ。(下式)

 

「速さ×時間=道のり」

 

この三つをそれぞれ短縮できることこそが、ほとんどの「テクノロジーの発展の原動力」になっていることにお気づきだろうか。おこちゃまの大好きな、飛行機、電車、新幹線、自動車、リニアモーター、などなどを例として考えてみるとよく分かる。速くなったり、時間が短くなったりね。

ぼくの書いたブログでも分かるように、テクノロジーの発展は上式の数値をいかに減らすかについてやっきになっている。いや、ぼくはこんなことを言いたいのではない。問題は、上式は「小学生でも理解ができる」ということだ。おこちゃま時代にテクノロジーの模型と戯れ、小学生の教育で夢を実現させる足がかりとさせているのだ。これでいいのか、じゃぱんの教育よ。

 

ぼくたち大人は、知らず知らずのうちに、テクノロジーの夢をおこちゃまにいだかせ、知らず知らずのうちに、じぶんたちのテクノロジーという夢物語が、おこちゃま時代からの憧れになっており、知らず知らずのうちに、おこちゃまのお国になっているのかもしれない。

 

という、SF小説でも書いてみたい!

ぜひ、どなたか愛をもってぼくに依頼を。