WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

ひとりの「現場にいる」技術者として語らせてもらう。

これから書くことは福島第一原子力発電所事故とは一切関係がなく、もう少し抽象的なことだということは先に述べておく。

 

「仮に」人類史を揺るがすような大事故が起こったときに考えなければいけない問いとは何だろうか。

ぼくは<二度と同じような事故を起こさないためにはどうしていくことがいいのか>という点こそ第一義とするべきだと思う。

そうであるときに現場の工場の作業風景を「なぞる」だけで、この問いに「応え」ることになっているのだろうか。現場にいる人々の「頑張り」(ぼくももっと頑張らにゃいけんなあ)を世に知らせるだけで、何か変化(=解決に結びつく)があるというのだろうか。

ぼくはこれに対しては懐疑的ではある。

 

最近、現場にいる技術者兼労働者として大変身につまされた思いをした番組『BS1スペシャル「原発投下 知られざる作戦を追う」』と雑誌『世界』(原発事故はどこまで究明されたかーー「吉田調書」を超えて)のふたつがあるのでぼくの現場視点から考えた点を述べることにする。

前者はある目的を遂行するときに決定が下してある目的を変更するのは組織内にいると大変難しいという点が大変印象に残り、ぼくはいまだに考え続けている問いでもある。つまり、目的を遂行するという「流れ」のなかでそれを「止める」方法は当事者たちだけで果たして可能であるのだろうか、という問いである。これは同時に、決定後に起こした過ちや失敗を二度と同じ轍をふまないためにもすべてを明らかにし第三者が介入し調査が必要であろう。そうすることが、次に同じ場面を現場で出くわしたとしたときに、この反省が頭をよぎり目的を遂行するという「流れ」に対してブレーキになるのではないだろうか。

後者は今後福島第一原子力発電所事故の「ような」事故が起きた場合にーー現場に居合わせていた場合にーーぼくはどういう決断ができただろうかというのを考えながら読んだ対談であった。こんなぼくが現場に居合わせていたときに、冷静な判断は果たして可能だろうか。そして事故後の収束を当事者「主体」で反省しつつも事故の究明をすることができるだろうか、ということを考えさせられた記事であった。これは同時に、この記事のようにジャーナリズムという行いが事故に対する究明にもなり、現場に対する反省にもつながるのではないだろうか。ぼくが事故現場に出会ったときの判断材料としてこの記事を参考にし同じ過ちをしないための現場努力ができるのではないだろうか。

 

この2つの例で大事なのは事故が起きてしまったときに「俯瞰」できるのは、こういうことを考えている当事者以外がいたということが現場に対して影響を与えれるということではないだろうか。同時に、現場にいるだけでは「気付けない」ことも多いにあるということではないか。

 

そしてこういうぼくの「経験」があるからこそ、ぼくは当事者「主義」に対して批判的だし、最初の問いである<二度と同じような事故を起こさないためにはどうしていくことがいいのか>に対して答えを出して(求めて)いくためにも、「第三者」の自由な考え、調査、言論、報道が必要であり「総括」ができると考えているのである。

 

 

愛とは、開かれていると同時に、受け入れることである。