WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

コンピュータ時代の想像力

 ネット界は門外漢、新参者には実に冷たい(3アクセス・・・。)ことが初投稿で分かったので、まともな文章だって書けることをみせつけるためにチャレンジしながら書いていくのである。

最近考えていること

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図1 

  図1のように入力装置(キーボード、マウス、タッチパッド、デジタイザ等)から、出力装置(ディスプレイ)に反映されるまでに「実感できない時間」があることはご存知だろうか。信号のやりとりをするために通信時間が数msあるのだ。だれか、パソコンをぶっ壊して(いや壊しちゃだめよ。分解して検査や測定するのは専門家のお仕事だからね。)オシロスコープで波形をとってみてほしい。もしくはネットで検索してみてください。僕はこの視点をもとに従来からいろいろと語られている「ディスプレイと手紙(≒のところ)」との差異について最近考えている。

 まずは入力装置から出力装置までの「実感できない」時間などというものは意味がない、と切って捨てることができうるのか。僕はできないと考えている。「実感できない」ことを「無意味」だとするなら、自然から放出している放射線二酸化炭素、むかし流行ったサブリミナル効果などをどう説明すればいいのか。実感できなくとも、無意識のうちに僕たちは「何か」を手放していたり、影響を受けているのは言うまでもない。この入力から出力までの数msによって影響があるかもしれない「何か」については科学者の知見が待たれるのだが・・・。(実際にもう発表されていたら、すいませんね。)

 確かにディスプレイと紙の「出力結果」についての差はほぼないといっていいだろうが、例えば、定型文を採用したとして、「鉛筆と紙」と「キーボードとWord」を比較した時に前者は必ず定型文を「毎回書かなければいけな」く、一つとして同じ文章(字体や字面)はないだろう。だからこそ、「人間が書いたものだ」という判断もできうる。逆に後者は「コピペ」が可能で「同じ字体」を連発することができる。デジタイザやマウスが入力(アナログ操作)だとしても必ず、「出力結果(ディスプレイに映る描写)はコピペができ」、同じ出力結果をコンピュータ内で量産することができる。そして見逃してはいけないのはアナログ(紙や印刷した書籍)として出力したもの――ただ一つのものとして出力した時点で同一のものは存在しない(印刷した環境、誰が触れたかで違ってくる、メモのあるなし、経年劣化等)。アナログやリアルの重要性をもっと端的に言葉で述べたいが、力不足も重々承知であるし、論より証拠という格言もあるくらいなので、以下に記しておく。

 

 

ネットはコミュニケーションとしては万能? 

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図2

  次に相手とのコミュニケーションとしてのメディアという観点で考えてみても、「リアルタイムで共有している」と言われるTwitterやLINEのネットワーク間で数ms単位での「遅れがある」(測定したわけではないが通信している以上は「必ず」通信間で遅れがでる)。こう考えると、手紙だろうが、メールだろうが電話だろうが糸電話だろうが、コミュニケーション時は発信する側が「先に言っている」ということになり、同時間を共有していないことになる。(同時にこれらのコミュケーション手段は「非対称性」になっているのであり、情報を先に知っていて先に言ったものが相手を支配できる点もあることをついでに述べておこう。)

 では現在は、同時間を共有していないのに「しているもの」として考えられ述べられているところが多いのでないかと感じる(極めて印象論)。まずはこの手の発想を切って捨てなければいけない。あくまでも、メディア(媒体)であり、そこには「メッセージしか存在しない」ということ。と考えてみれば、先にも言ったが昔もいまもコミュニケーションの方法は変わらないように思う。ともすれば、どうして僕たちのネット間でのコミュニケーションはこうも「成り立ちにくくなっているのか」。(昔は可視化されず今は可視化されている、不特定多数に同時に述べているなどの理由も考えられるが)一つの視点に着目すると、そこには現在のネットは「リアルの双方向コミュニケーションが前提である」ことになっている(ニコ動、LINEなど)が、本当は目の前にいたら言えない「リアル空間」ではなく、実態は目の前にいないから言える「メディア空間」になっているためではないだろうか。この逆さまの状況が様々なところに影響が出てしまっていると思う。相手は自分とは異なる空間にいる人間であるということが忘却の彼方(リアル空間という「前提」のため)になってしまったり、コミュニケーション以前に相手の都合を考えないこと(「実態」はメディア空間のため)もあるのではないだろうか。この逆さまな状況を改善するためにも「リアル空間にいない相手であり、メディアを介している相手」という本当の想像を、たった「数ms」間のコミュニケーションも必要――最近話題となったブログの内容を読んでも相手への想像が欠けている面もあるように感じる――であることが言えるのではないか。

 昔の人々は、数日の間でコミュニケーション手段である「手紙」を介してどれだけ相手のことを考えただろうかと想像するだけでも面白くなってくる。届かないかもしれない不安、きちんと読まれないかもしれない不安。それならせめて、不安を取り除こうと「丁寧に書く」。これがなくなりつつあるのがネットコミュニケーションのようにも同時に思う。

これだけの文章を書いても不安極まりないので科学的なエビデンスもまたまたつけておく。

 

何を言いたいのかよくわからなくなりつつもあるが、ネットから離れてなんでもいいから「物語」を読んで、相手のことをもっと考えなさい、はよ。 

  

あーダラダラ書くのも疲れるアマチュアブロガーの憂鬱。