WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

仕組みから考える音楽

これから書くことは中学校卒業以来、まともに「音楽」について触れたことがない人間が書いているという前提のもとお読み頂ければ幸いです。つまり音楽に関しては中学校卒業レベルだということです。

そうだとしても、工学を少なくとも仕事にしている身としては、「音楽の仕組み」については言えることもありますので、その点を踏まえながら書いていきます。

 

そして、ここから文体が変わるのでお断りしておく。

このツイート先の文章を読んで、工学的な視点で思いついたことがあるのだが、だらだらと書くのはあまり得意ではないため、またまた図を用いてそれを説明する形式を取りたい。 

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図1

現在、僕たちが聞いている「音楽の形式」は図1のようになっている。

[1,0]のデジタル情報を変換し、増幅回路を通じてスピーカで出力している。そのスピーカから出力されている空気の振動によって、僕たちの耳の鼓膜も連続的に振動することにより「曲」として感じている。このような理屈があるという前提の上で僕たちは「音を楽しんでいる」。(詳細についてはリンク先を参照願う。)

ちなみに、デジタルスピーカなるものがあるらしいが、このあたりについても興味のある方はぜひ勉強してみてほしい。(特に僕は勉強しないといけないなあ、と感じつつこのブログでメモ。)内容を読む限り、デジタル信号を変換せずに直接スピーカに出力させているのがデジタルスピーカらしいのだが、従来のスピーカと同じく出力した先は「空気の振動」というアナログを僕たちの身体(鼓膜)が感じているので、さほど内容には関係ないかと思われるが一応述べておく。

 

次に、昔からステージとかで聞いていると思われる「楽曲」についてはどうなのかというと、結局のところ何も現在と「仕組み」は変わらないのではないか、という結論。(図2

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 図2

 

楽譜に書かれている「情報」はあくまでも「符号」であり([1,0]のデータではないが、連続的な情報でもないため、仮に「デジタル情報」と呼んでもいいかと)、それを読み取る人間とピアノなどの楽器を通じて「アナログ出力」することにより、人間が音楽を聞いているという仕組みだと考えられる。この仕組みの概要は図1と同じだと思うが、コンサート会場などのステージでは何が違うのかというと、アナログに変換するのは「人間である」ため、取り返しのきかない一過性でありその場限りのハーモニーが会場を包んでいるということだろう。

とすれば、音というのは先にも述べたが「物体(空気)の振動」なので、空気の他にも音の発生源と面してさえいれば地面や壁という「物体」をつたって遠くまで響いている。そのため、おそらくコンサート会場などでは、緊張感や緊迫感、熱気などの「曲以外の空気の振動」――こちらの「空気」は比喩――まで会場で共有していることになっていると思われる。(って、僕は共有が好きだなあ。。。) 

言いたいことはここまでなのだが、少し展開を変えて踏み込んでみたい

では、最前線の音楽と言われている(?)初音ミクに代表されるVOCALOIDでも音符情報を取り込んでいる(詳細はリンク先)ということなので、人間の「変わりに」機械が「処理をしている」だけであって、仕組み的には何か新しいことはないように考えられる(炎上はまぬがれない?)。そんな単純な仕組みのはずが、「なぜ初音ミクによって人々を熱狂させ続けることができるのか」、という問いを立てて考えてみると、コンサート会場で初音ミクを聴かせ続けていても「機械の動作」のため失敗は「絶対に」しない。そこに聴衆が「人間を超える完璧なもの」を初音ミクに求め、ある種の超越をコンサート会場で共有することにより、そのコンサート会場での熱狂が起こるのかもしれない。

先のツイートのリンク先に「音楽作品は自然を模倣すべきもの」や「声や音は自然のものであるが、音階や言葉はそうではない(人間の文化である)」と書いてあるが、この初音ミクの仕組みではなにもかも機械――音声は人間の言葉であるが、合成することにより「ひとりの人間ではなくなっ」てしまうため機械の音声に違いない――が行うことにより、この2点の前提が崩れ、自然の音楽ではなく「機械の音楽」(まあこれも「人間の文化」と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが)になっているように思う。つまり、ひとりの人間ではないはずが、「ひとりの人間かのように振舞っている」ところにこそ「宗教性」を感じ、超越を垣間見てしまうのは僕だけだろうか。

 

 

話をすこし戻すと、文明の発達にともない機械も発展していくなかで「個、パーソナル」で楽しめるようになってきたと思う。そのことに対して、ささやかながらも抗って、リアルな場の共有の重要性をこのブログで述べていきたいのかもしれない。という、「ひとりで」このブログを書きながらのリアルな場を共有したいがためのリハビリ文章でした。

 

愛は自分にもときどき向けるんだぞ!

 

 

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文化系のための大企業講座

ということで、電機・製造業の「大企業」における、学歴に対する職業を以下に記します。

 

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現状を俯瞰してみるとこのようになると思います。

なので、僕自身を鑑みてもですが、「工学内の学歴では差別はあってしかるべき」です。むしろ熟練度において仕事を割り振るので、工場を抱えている大企業についてはとくに揶揄をしているつもりはないです(僕も選べば時代的に入れました)し、同じ技術者同士でどちらかというとみんな「仲間」みたいな感じがあります。ですから、特に「大企業に入りたかった」とは思ったことは一度もありません。(いやあるかなあ。。。)

 

ですが、「文系が主に入るといわれる大企業」は、下図のようになっていると思います。

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これに対してはTwitterで僕自身の経験もあって、揶揄の対象にしていました。

(というよりも、揶揄4割、冗談4割、問題提起2割くらいのつもりではありました。もうぼくにとっては過去のことで終わっていることですので、適当につぶやいていたつもりではあったのですが。。。)

 

正直、不注意だったかなと思います。でも、僕より「馬鹿な文系」が「文系の大企業」に勤めているのとかをみたりすると、書類で落とされた僕としては文句のひとつも言いたくなりましたが(友だちがいないので、Twitterでのみですが。。。)、もう今日をもって「文系の大企業」の意味不明な採用理由(やっぱり現状の「日本の文系の大企業」の仕組み――新卒一括採用――では差別しかないと思われます。)については何も語ることをしません。以上です。

 

愛を保つので必死な今日このごろ。

エンジニアの思考ーープログラム、回路、機構

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<プログラム>

縦のライン

→分岐、場合分け、繰り返しといったアルゴリズムを考え、システムの流れを提示する。

 

<回路>

平面

→システム同士をつないだり、分解したりしながら、システムを動かす。

 

<機構>

空間把握

→対角線の長さを変更することにより、全体を調整し支える。俯瞰して物事をみる。

(建築家やデザイナーと似ているかもしれません。)

 

簡単にまとめると、プログラマはプログラミング「言語」というものと常日頃から対峙しているため、言語による論理的展開が得意。機構と回路は、分解・組み立て用に各子部品に対して意味付けをするため、物事を分けて考えることが得意になるし、仕事をするにあたっても人を良く見て、適材適所を常に考えている。そして、機構や回路についての仕事をしていくと、頭のなかにある「図」で相手とコミュニケーションをする傾向が増していく。(もちろん、これら3つの分野は相互作用もあることから、それぞれの分野に対して思考が重複していることは言うまでもない。)

そして上図(あくまでもイメージ)からはみ出すためには、「アート」的な素量が必要であり、その素量をうまく用いることによって使い手を発奮させることができるのかもしれない。

 

ここに書いたことはぼくの経験に基づくことだが、あながち間違っているとはいえないかなと。

だって、普段から「それに触れて」仕事をしているんだから。

 

 

って、実力もなければ何もない僕がいったところで、誰も見てくれないし相手にしてくれないんですがね (キリッ

でも、愛だけは決して捨てない。

メディアによる想像力の差 〜〜リアル空間を共有するとは〜〜

これから書くようなことについて、誰かが同じようなことを言っていたら僕の代わりにそのお方に謝罪しておいてください。

ということで、まずは世にあるメディアをなんの前触れもなく列挙していこうと思う。

[TwitterFacebookmixi、個人ブログ、新聞、ネット新聞、テレビ、ラジオ、ネットラジオ、ネットサイト関連]

もちろん、他にもあると思われるが、まあそれは今回の展開ではどうでもいいかと思うのでここで止めておく。そして、もう落ちぶれているのもあるのかもしれないが、それを言うと炎上のきっかけになりそうなので、読んでいただいている方が勝手に想像してみてください。

これらをネタに最近考えていることをつらつらと思いつく限り書いていこうと思う。結論から言うと、メディアと対峙している側が、それぞれのメディアの「場」に対する直感があるのではないか、ということ。つぶやきという視点で捉えるとTwitterだと自然と140文字という制限があるので要約する姿勢になるし、相手のつぶやきに対してもそれを求めてしまう。Facebookだとダラダラと書くか、もしくは「人によく思われたい」(だって、いいね!ボタンほしいじゃん。)一心で書く。ブログはその背景にある「デザイン」によって文章の印象、内容がまるで違うし、一行の文字数やダラダラ書くか、見出しをどうするかの工夫なども変わってくる。それは何か文章表現してあるメディアの書き手受け身の立場は関係なく、そのメディアのデザインに影響を受けているのではないでしょうか。新聞は視界が広くなった気がするし、ネット新聞は視界が広くなるというよりは、一行の見出しに釣られ、知らず知らず読んでいる感じ、と、適当に自分勝手の各メディアの解釈を書いてみたがいかがだったでしょうか。というように、各メディアの差異や違和感を「直感的」に感じることができるのがヒトなのかもしれませんね。

と、ひとまず仮説を立てておいて、

 で、ここからが本題

次に動画を見るという視点を中心にコンピュータとテレビの入力の「違い」によって人とメディアとの関係がどう変わるのかを考えてみたい。

 

メディア | <テレビ> | <コンピュータ>

入力   | リモコン  | キーボード

意図   | 選択    | 選択+表現

 

まずは、コンピュータはマルチタスクで動作しているため、何か動画をみていても他の作業などに気移りがすることもある。そのため、なかなか「一番組」に集中するのが難しい。テレビは「チャンネルによって情報が予め設定されている」ため情報をひとつに絞るような仕組みになっている。なので、一つの番組が始まると集中しているかという如何を問わず、チャンネルを変え「にくい」と思われる。

上記の簡易表のようにコンピュータとテレビとの最たる違いはキーボードなどの入力装置によって自分の思いや感情などの表現ができる(したい人に限り)ということだろう。そもそも、テレビが「お茶の間」として成り立っていたのは、その場にいる家族や翌日に「他人に対して表現をしていた」からであって、ネットの出現によりそのお茶の間がネットという「バーチャルに表現を拡張して」いっているように考えられる。だからこそ、ネットと共に「ひとりでも快適に過ごせる」のかもしれない。(ぼくは割とそうだが、みなさんはどうだろうか。)

 

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図1 

では、以前書いたような展開になっていきそうだが、ネットによって「ひとり」でメディアを介して楽しめるのは違いないと思うが(ネット中毒者増殖中なう?)、図1のように、1人の人間の時間における感情のゆらぎを簡単に波形予測として書いてみた。端的に言うと、リアル空間ではひとりでも笑いや驚き、感動、怒り、呆れなどの感情の「変化」が起きている。

 

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図2

だが、コンピュータを通じたひとりひとりの「複数人」からなるネットコミュニケーションでは、他人と「感情の変化」を共有しようと思っても、メディア空間は「メッセージしか存在しない」ため、変化を知ることができない(図2)。テレビ電話のように動画同士のコミュニケーションでは、「ほぼリアルタイム」と考えてもいいとは思うが、それでも「画面によって」制約があるため、1人の人間全体を通した感情の差異(ほら手の動きとかによって相手の感情の動きが分かるとかいうし?)は分かりにくいと思われる。先のリンク先で述べた延長線上の考えではあるけれど、その変化を「知ることができない」からこそ、相手への想像の欠如が生じ、自分の好き勝手言えているのではないでしょうか。だからこそ、改めてネットコミュニケーションでは相手への想像が不可欠だということを述べておく。また、リアル空間に「複数人」がいる場を想像したとすると、お互いが同時間を共有しているため、そのひとりの感情の変化も同時に共有することができる。そのためリアル空間ではお互いの感情の変化は唯一その場限りでもあるため、共有していた感情の変化の「交換不可能性」が起こり、それがお互いのつながりを強めているのではないかということも述べておこう。

ちなみに、ざっくりとだけど、図1がアナログ波形で、図2がデジタル波形(アナログみたいにくねっているというあんたの指摘はお見通しよ)です。[1,0]のネットの世界なのにどうして「マイナス」が生じるか疑問に思った方もいるのかもしれません。それは『論理回路』の基礎に書いてありますので興味がある方は是非!(という知識自慢もいれつつ)

 

で、結論としては、このブログを書いている僕の「苦悩の変化」は、ネットを通じたバーチャルの世界ではお伝えできないということであり、仮に、僕がコンピュータと対峙しながら苦悩しているリアルな場に誰か他の人がいたら、文章を書きながらの唯一無二の「苦悩の変化」を知ることができ、その「苦悩の変化」をお互いに共有することを通じて僕のことを好きになってくれるということだよ♡

 

どうでもいいが、最近みんなしてコピペコピペって言っているけど、コピー&ペーストって誰か言え、はよ。そして、もし僕のブログの記事がコピペしてあったら、こんな辺境なブログにまで関心があったってことですよね。そんな方のために、愛してるぞ!

 

間違っても⇓の広告をクリックするんじゃねえぞ(一度は言ってみたかった。。。) 

デジタル写真時代の想像力 1

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登場人物 カメラマン(俺)、チェック男、運転手さん

 

運転手さん:(また後ろから変な男に見られているよ。いやだなあ。でも仕事だし我慢するか。)

 

チェック男:(運転手さんになりたいなあ。鉄道好きにはたまらん職業だよなあ。先輩ってこっそり呼ぼう。ウホ。)

 

運転手さん:(まだジロジロみているよ。そんなことよりも他の乗客のために安全運転っと。)

 

チェック男:(あの白い手袋、あの帽子、あの制服、ほしいなあ。こっそり頼めないかあ。)

 

運転手さん:(変な男の隣にいるやつ、俺のほうにカメラ向けてる。もう、本当に今日は嫌な日だなあ。まあ他の乗客の思い出のためにも運転しないと。)

 

俺:(この二人の熱心な姿に感動してしまった。俺は写真なんか勝手に撮っているだけだし、何がしたいんだろうか。)

 

チェック男:(よーし、次の駅で抱きしめてやろう。電車も運転手さんの制服も愛してるぞ。)

 

声に出して読みたくなるタイトル

昔、さまぁ~ずの三村氏が、コンビ名「ずん」のやすに対して言ったこと。

 

ずんの、やす!

(動画探したけど見つからなかった。)

 

 このブログのタイトル名の由来です。

 

せーの、

 

愛してるぞ!