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愛に燃えるブロガーになる。

ヴィーガン「思想」について思う。

この国の国土の中で森林の割合は世界的には上位だろう。もっと言えば、この国の都市部の森林の割合が少ない分、森林の面積と言ったらほとんどの国は追いつけないだろう。

なぜこの点から述べているかと言えば、ヴィーガンと言えば、「欧米」が進んでいて、この国が「遅れている」という観点からの言説があまりにも多すぎるからだ。

カートゥーンサルーンの映画で代表的な作品と言えば『WolfWalkers』だろう。これはイングランドの人々がアイルランドのオオカミを撲滅しようとした歴史を「アイルランド側」から描いた物語だ。その中で、オオカミが住んでいる森を焼き尽くすような表現もあったような記憶がある。

また、アメリカではケンタッキーやマクドナルドに象徴されるように、大量消費の裏で「効率よく」動物が殺害されている現代の現実もある。ぼくも美味しく食べているが・・・動物が当たり前にいるこの国ではこういった商売は生まれなかっただろう。

ヴィーガンの人々は大量消費の中で、「効率的に(感情を持っている)生き物を殺害している」現実に対し問題意識を抱えているのだろう。

 

誰だって、動物を殺される瞬間は目を瞑りたくなるし、見ないでいいのであればそれで生きていきたい。ぼくだって最近、東出昌大youtubeを見ているが、流石に動物を殺害される瞬間は見たくないと思った。

これがヴィーガン「思想」に目覚める原点だと勝手に考えている。

 

話は最初に戻って、この国は森林が多いからこそ、野生動物と共存してきているし、そういった物語も多いのだろう。だからこそ、野生動物に感情を持つような宮崎駿の映画がハリウッドで受けているとは思う。

仏教と言えば動物性の食品を省いた精進料理だが、この料理がアジア圏では広がっているようにこの国でも当然ある。そういった宗教的な歴史や人々が動物の殺害に対して目を瞑りたくなる現実も一因となり、この国では穢多非人という身分を作ってしまったのだろう。それが現代でもいまだに影を落としている。

そのため少なくとも「欧米」の「ヴィーガン」よりは動物の殺害に向き合ってきているのがこの国の人々だとぼくは勝手に思っている。

もちろん、この国だって鳥インフルみたいな病気が見つかり次第、大量に鳥を「殺害」している現実もある。

 

こういったぼくレベル知識ですら、何が正解で何が間違っているかはよくわからなくなってくるのが事実だ。

 

少なくとも人権意識と同じようにこの国がヴィーガンに対し「遅れている」から、啓蒙が必要という発想ではこの国は何も変わらないだろう。

ぼくはヴィーガン「思想」を変えたいとは思わない。むしろこの思想は「感情」に寄っているため議論は成り立たないし、言葉を尽くすことで有意義なことになるとも思えない。だって、これまでの多くの宗教では食べ物を禁止している宗教がほとんどで、それと同じだ。原理主義に陥らないように、どこかで折り合いをつけるしか解はないのだろう。

ただし、なぜヴィーガン思想みたいなものが生まれるのかについては興味がある。

 

動物とは一体なんなのか。人間も動物な側面もある。だからこそ身近な動物に対し慈しみを覚えるのだろう。

一方で憎しみを持てば人間ですら平気で殺すのも人間だ。

 

 

 

文章を書き始めても一向に答えに辿り着かなさそうだ。

人間は人類への普遍の平等と愛を求めてきた歴史がある。これをどこまでの動物までに拡張できるのかという問いにこそ答えがあるように思う。

 

考え続けるしかないと思う。そうでないと愛は見つからず、憎しみ続けるだろう。

 

音楽って一体 なんなんだ・・・・・・?

ということでドラマ『ブラックジャックによろしく』で使われていた曲

 

そんなことを考えている時にある本が出版された。

 

 

 

ぼくは音楽に詳しいわけではないし、その時流行っている曲をなんとなく聴いている人間だ。ただし、ビートルズを筆頭にあの全共闘の時代にはどうして音楽が流行っていたのかについては興味ある。そんなことが分かるヒントになりそうな本だった。

みのの音楽をyoutubeで聞いてみると、みのの音楽にはUKロックから懐かしの歌謡を混ぜて現代に届けている挑戦的な音楽が多数ある。それはこの本によると、はっぴいえんどから始まる細野晴臣は昭和50年から53年にかけて「西洋人から見るステレオタイプ的なアジア表現」に挑戦をし、YMOの着想となる音楽表現に行き着くとの記載がある。だから松本隆やCharなどと対話できているのだろう。


最近、

 

の番組を見た。ここではみのに対して批判的だった、文体がない、一貫性がない、など。こう思う、通史に文体が必要あるのだろうか。文体がないことこそがこの国の邦楽通史ではないのか。ぼくは「逆説的に」この本こそ邦楽の通史を表していると思った。

だからこそこの国の音楽の歴史を語るときは、ある「ジャンルに逃げる」ことが多いのだろう。

むしろ、邦楽の通史に文体があるのなら、そんな通史も読んでみたい。

 

この本のタイトルは『にほんのうた』。これは、昔、坂本龍一が監修したアルバムのタイトルと同じだ。みのはやはりこの世代から影響を受けていそうであり、強いていうのであればここの全共闘世代感をもっと掘り下げて語ればそれこそ文体ができるのではないだろうのか。

なお、ぼくがみのが偉いと思うのは評論なのではなく、この通史にチャレンジしたことであり、新宿あたりにお店も持っていることだ。

 

だからこそ、持続的な歴史が語られ続けるのだろう。

 

音楽について答えが出ないから、愛をもって語るのみ。

 

2024/4/12 訂正&雑感を追記

細野晴臣は正確にはバンド名「エイプリル・フール」が始まりとなる。

・これからこの国から多くのアーティストが海外に発見され、注目される機会も多くなっていく中で「政治とアーティスト」の関係は考えないといけないとは思っている。

 アメリカでリベラルなアーティストといえば、マドンナであり、テイラー・スウィフトであり、ビヨンセが真っ先に思いつくだろう。逆にトランプといえばカニエ・ウェストが真っ先に思いつく。

 最近YOASOBIが自民党政治の岸田首相と民主党政権のバイデンとのパーティーに参加したことで賛否が分かれた。

 ぼくがリベラルだのトランプだのと形容したように、他国から見ると形容される恐れがこの国だって起こり得る。この国のローカルの文脈だと自民党は「国民政党」と名乗っているし、思想というよりは「当たり前の父権な存在」だろう。しかし、他国から見るとLGBTQも認められないし、たかが夫婦別姓ですら達成できない保守的な性格の政党と見られるだろう。

 BTSですら文在寅政権には取り上げられていたが、現韓国政権とは距離をとっているように思う。政治に近づくとはこういう「解釈をされる」ことが常に付きまとうのだ。

 まあぼくは政治に無頓着なアーティストは「政治」に関わるのはオリンピックなどのお祭り的なイベントに留めておくのは無難だと思う。

 もし政治に関わるのであれば、少なくともぼくはアーティスト個人の意図思想とは別に、政治思想の解釈をしていくだろう。

 

『大コメ騒動』を見てきたがいぜ

こんな富山弁で感想文を書いとるのは見当たらんとは思うので、貴重な意見というより文体を読んでもらえると嬉しいちゃ。

 

何を言えばいいのか考えとったがやけど、これを言っとけばいいのかねと思ったことを言っとくちゃ。

まずは、女性が男性を倒す「単純」な物語になっとらんかったから良かったちゃ。

だからこうやって感想を言えとるがやけどね。

でも上映開始してしばらくしてから帰っとった男性の観客がいたがやけどもったいないと思ったちゃ。

他に何を言おうか考えたがやけど、喋り言葉でなおかつ方言で文章書くのはほんとしんどいがやちゃ。

だからこんなもんでいいねか。

 

もう10年以上も神奈川に住んどるので富山弁はなかなか難しくなっとるちゃ。

だけど変わらんと富山には愛を持って注目していくちゃーね。

 

www.asahi.com

 

www.youtube.com

コロナの「測定」から原因を推測する。

最近、コロナが「なぜ」これまでの2波と違い、また増え始めたのかを考えていた。

それは以下の4例にもある通り、(おそらく)忘年会が原因でしょう。

www.okinawatimes.co.jp

www.tokyo-np.co.jp

www.kanaloco.jp

www.yomiuri.co.jp

 

少し前まで定常状態だったことを推測しても忘年会はありえそうですよね。

ここでもう少し時間を「生活」週間に伸ばして考えてみると、春の波は入学式や入社式、異動に伴う新しい人々との「会話」、夏の波は祭りや休暇や帰省に伴うこれまで久しく会っていなかった人々との「会話」、そして今回の冬の忘年会、クリスマス、帰省ですよね。

つまり、日常に合っていない人と「新規で」会話をすることでどんどんどんどん感染者が増えていくのだろうと推測できる。

 

ある感染していない個人が単体でいたとしても感染することはない。このことを仮にAとしよう。

そこにAと日常で会っている個人が単体でいて感染していないとする。このこと仮にBとする。そこで感染しているCがいて、そこにA or Bに新規で出会って「会話」をしたとすると、ここにABCというクラスターが出来てしまう。

よって、これらを踏まえると久しく「会話」をしていないCとの会話を防げれば新規のクラスターは増えないということになる。

ゆえに、今回の新年会で久しぶりに会う人々との「会話」を防げることが出来たら、陽性者の数値ベースでの減少するかどうかはわからないが 、上昇していかないことになる。

そのため、今回の緊急事態宣言で結果が出るかどうかは数日後以降だろう。

 

まとめると、コロナが落ち着くまで、日頃の付き合いは大事だからそのまま維持してもらっても問題はなさそうだが、新規や久しぶりに「会う」人々との会話(=C)との接触を減らせばこのコロナ感染症では、スケールフリーの上昇はしないということなる。おもしろい。(と、言っちゃいけないなあ。。。)

 

だが、ここに盲点がある。

 

新たな人に出会わなければ愛は生まれないということだ。

 

科学の希望は地球外生命

これから書くことは現在起きていることとは一切関係がなく、あくまでもこのブログの主旨である「残す」という観点から述べていくという前提は先に言っておこう。

その前に、コロナは減少しなかったね。それでも指数関数的には伸びていないようだし、誰も人間の行動(=自然)については予測ができないし、制御できないんだろうな。それを「後付け」で様々な理論ができているんだろうなと思う。

そう、これこそが科学の詭弁であり、大罪なのである。

そこで今回は2冊の本を紹介しておこうと思い立った。(何事も初心に帰るの大事よね。)

 

まずは『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』を紹介しておこう。内容としては、どうしてアメリカが科学という軸で分断しているのかなのだが、ぼく個人としては政治や信仰の観点から分断を述べている点が興味深かったな。それ以上にその現象がなんで起きるのかを考えると、やっぱりじぶんの「第一印象」からの「訂正」って余程のことがない限り難しいだろうなと思いますね。ここに記載してある政治や信仰っていうのは「例」でしかなく、誰にでも起こりうることなんでしょうね。とにかくヒトが「分断」を起こすんですよね。ウイルスの「恐怖」や「不安」に関してもね。

ただね、科学者も市民に語りかける活動も始めているようだし、分断解消の一縷の希望は芽生え始めてはいるようですね。

そこでこの著書内のコラムに記載してあるSETIというアメリカの地球外生命を調査している団体について興味が惹かれましたよね。急に関係がない文章を述べているが、これはあくまでもフラグである。もう一度言う、フラグである。

twitter.com

 

 

 

次に紹介するのは、科学でも失敗の歴史を追ったエッセイ集。タイトルが『禍いの科学』となっているが、七つの大罪としての七つのエッセイと、パンドラの箱をモチーフに科学の希望はなんだと言うのがこちらの著書の主旨だろうね。医療関係者が書いているのだが、七つのエッセイを読んで、こんなにもヒトは愚かなのかと思わざるをえないですよね。もちろん、科学を「信仰」しているからこそ起きるのだが、こうやって科学の愚かさを歴史から追ったところでヒトは変わりそうにありませんよね。歴史を学ぶってなんなのだろうか。歴史の教訓から学ぶことは果たして希望は芽生えるのだろうか。ほんとにヒトは進歩するのだろうか。そこから人間になるにはどうしたらいいのだろうか。平時ではいくらでも人間は言葉に関してどれだけでも素晴らしさは述べられたとしても、有事ではどれだけこういった知見から学ぶことができるというのだろうか。正直、ぼくにはわかりませんよね。ただし、科学の罪を追うのがメインとはなっているが、そこでバランスをとろうとしたのだろうか、過剰な自然主義に対しても警報をしているエッセイもある。そんなところかな。

 

 

最後にこちらを紹介しておこう。

最近『地球外生物の世界』をNetflixでみたが、人間のこの地球での生活による想像力をあえて超えないようにしているだろうね。こうやって現実逃避をしているのが一番よいよね。と言うことで、前二つの著書とは関係ないだろうというツッコミがあるが、以前のフラグがここにつながっているのだ!。。。

https://www.netflix.com/title/80221410

 

 

そこでもう一度言う。

科学の愛と希望は地球外生命である。

 

(クソ)政治の話なんてしたくはないが。。。

どうだろう、とある政党が女性を「PR」する作戦をとっていますよね。

もちろん、ぼくは男性だし、応援するとか軽々とは言えないが、ほとんどの批判する人は「男性」という構図を作るのは悪くないとは思いますよね。

もちろん、こういった構図を作ることそのものは「卑怯」だという批判はあるでしょうが、それ以上にこの「男社会」を変えた方がいいとも同時に思いますよね。

次の衆議院選挙ではどこまで結果がついてくるかは正直分からないが、見ている人は見ているとは思うし、簡単にじぶんたちの「やりたい」ことからブレないことが重要だとは思いますよね。

 

あえて、多数派を狙わなくて、少数派を狙うことは、何年か経てば無視できない政党になっているとはぼくは信じていますよね。

 

(追記)

とにかくどうやったら得票数を伸ばせそうかを考えてみたよ。読んでいたら参考程度にしてもらえると嬉しいよ。

前回の参議院選挙では得票数が100万票程度(ここまで言うとバレるな、、、というバレてるだろ。。。)で、他党に流れるのが多く見積もっても50万票程度でしょうね。

そこから新規で多く見積もって100万票取れれば御の字だと思いますね。つまり、党としても目標は150万票にするのが現実的だし、そこを一つの目安にするのがいいとは思いますよね。もちろん、届かないなら届かないで考察が必要だし、届いたならやっていることが良いということになりますよね。

そこでどうやったらこれだけの票数を獲得できるのかだが、女性でも保守的な傾向を持っている人もいるし、他党支持もいるでしょうから、まずは、女性でも政治に「参加してもいいんだ」と思ってもらうことから始めることですよね。そのためには、政治が身近なことだと思ってもらうことであり、そのためには、生活者視点から女性にも差別があるんだ、というPRが必要だと思いますよね。それ以外に男性のぼくからは言えることはないなあ。。。

(追記)

前回の衆議院選挙からは、北海道と近畿と関東が比例で増えていましたよね。

これらを重点的に攻めるか、もしくは他圏を伸ばしていくか。ポテンシャルと人数を考えると、前者が良いように思いますよね。ただ後者も忘れてはいけませんよね。

 

でもなんでぼくがこんなに意見を言うのかなあ、とは思う。

そのとある政党が無くなったら無くなっただし、おそらくぼくのこれからの生きていく上では「関係がない」でしょう。ただし、このままでいいのか、とも同時に思うのだよね。

 

 

愛とは、男性が批判される覚悟でいうこと。