WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

文化系のための大企業講座

ということで、電機・製造業の「大企業」における、学歴に対する職業を以下に記します。

 

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現状を俯瞰してみるとこのようになると思います。

なので、僕自身を鑑みてもですが、「工学内の学歴では差別はあってしかるべき」です。むしろ熟練度において仕事を割り振るので、工場を抱えている大企業についてはとくに揶揄をしているつもりはないです(僕も選べば時代的に入れました)し、同じ技術者同士でどちらかというとみんな「仲間」みたいな感じがあります。ですから、特に「大企業に入りたかった」とは思ったことは一度もありません。(いやあるかなあ。。。)

 

ですが、「文系が主に入るといわれる大企業」は、下図のようになっていると思います。

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これに対してはTwitterで僕自身の経験もあって、揶揄の対象にしていました。

(というよりも、揶揄4割、冗談4割、問題提起2割くらいのつもりではありました。もうぼくにとっては過去のことで終わっていることですので、適当につぶやいていたつもりではあったのですが。。。)

 

正直、不注意だったかなと思います。でも、僕より「馬鹿な文系」が「文系の大企業」に勤めているのとかをみたりすると、書類で落とされた僕としては文句のひとつも言いたくなりましたが(友だちがいないので、Twitterでのみですが。。。)、もう今日をもって「文系の大企業」の意味不明な採用理由(やっぱり現状の「日本の文系の大企業」の仕組み――新卒一括採用――では差別しかないと思われます。)については何も語ることをしません。以上です。

 

愛を保つので必死な今日このごろ。

エンジニアの思考ーープログラム、回路、機構

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<プログラム>

縦のライン

→分岐、場合分け、繰り返しといったアルゴリズムを考え、システムの流れを提示する。

 

<回路>

平面

→システム同士をつないだり、分解したりしながら、システムを動かす。

 

<機構>

空間把握

→対角線の長さを変更することにより、全体を調整し支える。俯瞰して物事をみる。

(建築家やデザイナーと似ているかもしれません。)

 

簡単にまとめると、プログラマはプログラミング「言語」というものと常日頃から対峙しているため、言語による論理的展開が得意。機構と回路は、分解・組み立て用に各子部品に対して意味付けをするため、物事を分けて考えることが得意になるし、仕事をするにあたっても人を良く見て、適材適所を常に考えている。そして、機構や回路についての仕事をしていくと、頭のなかにある「図」で相手とコミュニケーションをする傾向が増していく。(もちろん、これら3つの分野は相互作用もあることから、それぞれの分野に対して思考が重複していることは言うまでもない。)

そして上図(あくまでもイメージ)からはみ出すためには、「アート」的な素量が必要であり、その素量をうまく用いることによって使い手を発奮させることができるのかもしれない。

 

ここに書いたことはぼくの経験に基づくことだが、あながち間違っているとはいえないかなと。

だって、普段から「それに触れて」仕事をしているんだから。

 

 

って、実力もなければ何もない僕がいったところで、誰も見てくれないし相手にしてくれないんですがね (キリッ

でも、愛だけは決して捨てない。

メディアによる想像力の差 〜〜リアル空間を共有するとは〜〜

これから書くようなことについて、誰かが同じようなことを言っていたら僕の代わりにそのお方に謝罪しておいてください。

ということで、まずは世にあるメディアをなんの前触れもなく列挙していこうと思う。

[TwitterFacebookmixi、個人ブログ、新聞、ネット新聞、テレビ、ラジオ、ネットラジオ、ネットサイト関連]

もちろん、他にもあると思われるが、まあそれは今回の展開ではどうでもいいかと思うのでここで止めておく。そして、もう落ちぶれているのもあるのかもしれないが、それを言うと炎上のきっかけになりそうなので、読んでいただいている方が勝手に想像してみてください。

これらをネタに最近考えていることをつらつらと思いつく限り書いていこうと思う。結論から言うと、メディアと対峙している側が、それぞれのメディアの「場」に対する直感があるのではないか、ということ。つぶやきという視点で捉えるとTwitterだと自然と140文字という制限があるので要約する姿勢になるし、相手のつぶやきに対してもそれを求めてしまう。Facebookだとダラダラと書くか、もしくは「人によく思われたい」(だって、いいね!ボタンほしいじゃん。)一心で書く。ブログはその背景にある「デザイン」によって文章の印象、内容がまるで違うし、一行の文字数やダラダラ書くか、見出しをどうするかの工夫なども変わってくる。それは何か文章表現してあるメディアの書き手受け身の立場は関係なく、そのメディアのデザインに影響を受けているのではないでしょうか。新聞は視界が広くなった気がするし、ネット新聞は視界が広くなるというよりは、一行の見出しに釣られ、知らず知らず読んでいる感じ、と、適当に自分勝手の各メディアの解釈を書いてみたがいかがだったでしょうか。というように、各メディアの差異や違和感を「直感的」に感じることができるのがヒトなのかもしれませんね。

と、ひとまず仮説を立てておいて、

 で、ここからが本題

次に動画を見るという視点を中心にコンピュータとテレビの入力の「違い」によって人とメディアとの関係がどう変わるのかを考えてみたい。

 

メディア | <テレビ> | <コンピュータ>

入力   | リモコン  | キーボード

意図   | 選択    | 選択+表現

 

まずは、コンピュータはマルチタスクで動作しているため、何か動画をみていても他の作業などに気移りがすることもある。そのため、なかなか「一番組」に集中するのが難しい。テレビは「チャンネルによって情報が予め設定されている」ため情報をひとつに絞るような仕組みになっている。なので、一つの番組が始まると集中しているかという如何を問わず、チャンネルを変え「にくい」と思われる。

上記の簡易表のようにコンピュータとテレビとの最たる違いはキーボードなどの入力装置によって自分の思いや感情などの表現ができる(したい人に限り)ということだろう。そもそも、テレビが「お茶の間」として成り立っていたのは、その場にいる家族や翌日に「他人に対して表現をしていた」からであって、ネットの出現によりそのお茶の間がネットという「バーチャルに表現を拡張して」いっているように考えられる。だからこそ、ネットと共に「ひとりでも快適に過ごせる」のかもしれない。(ぼくは割とそうだが、みなさんはどうだろうか。)

 

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図1 

では、以前書いたような展開になっていきそうだが、ネットによって「ひとり」でメディアを介して楽しめるのは違いないと思うが(ネット中毒者増殖中なう?)、図1のように、1人の人間の時間における感情のゆらぎを簡単に波形予測として書いてみた。端的に言うと、リアル空間ではひとりでも笑いや驚き、感動、怒り、呆れなどの感情の「変化」が起きている。

 

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図2

だが、コンピュータを通じたひとりひとりの「複数人」からなるネットコミュニケーションでは、他人と「感情の変化」を共有しようと思っても、メディア空間は「メッセージしか存在しない」ため、変化を知ることができない(図2)。テレビ電話のように動画同士のコミュニケーションでは、「ほぼリアルタイム」と考えてもいいとは思うが、それでも「画面によって」制約があるため、1人の人間全体を通した感情の差異(ほら手の動きとかによって相手の感情の動きが分かるとかいうし?)は分かりにくいと思われる。先のリンク先で述べた延長線上の考えではあるけれど、その変化を「知ることができない」からこそ、相手への想像の欠如が生じ、自分の好き勝手言えているのではないでしょうか。だからこそ、改めてネットコミュニケーションでは相手への想像が不可欠だということを述べておく。また、リアル空間に「複数人」がいる場を想像したとすると、お互いが同時間を共有しているため、そのひとりの感情の変化も同時に共有することができる。そのためリアル空間ではお互いの感情の変化は唯一その場限りでもあるため、共有していた感情の変化の「交換不可能性」が起こり、それがお互いのつながりを強めているのではないかということも述べておこう。

ちなみに、ざっくりとだけど、図1がアナログ波形で、図2がデジタル波形(アナログみたいにくねっているというあんたの指摘はお見通しよ)です。[1,0]のネットの世界なのにどうして「マイナス」が生じるか疑問に思った方もいるのかもしれません。それは『論理回路』の基礎に書いてありますので興味がある方は是非!(という知識自慢もいれつつ)

 

で、結論としては、このブログを書いている僕の「苦悩の変化」は、ネットを通じたバーチャルの世界ではお伝えできないということであり、仮に、僕がコンピュータと対峙しながら苦悩しているリアルな場に誰か他の人がいたら、文章を書きながらの唯一無二の「苦悩の変化」を知ることができ、その「苦悩の変化」をお互いに共有することを通じて僕のことを好きになってくれるということだよ♡

 

どうでもいいが、最近みんなしてコピペコピペって言っているけど、コピー&ペーストって誰か言え、はよ。そして、もし僕のブログの記事がコピペしてあったら、こんな辺境なブログにまで関心があったってことですよね。そんな方のために、愛してるぞ!

 

間違っても⇓の広告をクリックするんじゃねえぞ(一度は言ってみたかった。。。) 

デジタル写真時代の想像力 1

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登場人物 カメラマン(俺)、チェック男、運転手さん

 

運転手さん:(また後ろから変な男に見られているよ。いやだなあ。でも仕事だし我慢するか。)

 

チェック男:(運転手さんになりたいなあ。鉄道好きにはたまらん職業だよなあ。先輩ってこっそり呼ぼう。ウホ。)

 

運転手さん:(まだジロジロみているよ。そんなことよりも他の乗客のために安全運転っと。)

 

チェック男:(あの白い手袋、あの帽子、あの制服、ほしいなあ。こっそり頼めないかあ。)

 

運転手さん:(変な男の隣にいるやつ、俺のほうにカメラ向けてる。もう、本当に今日は嫌な日だなあ。まあ他の乗客の思い出のためにも運転しないと。)

 

俺:(この二人の熱心な姿に感動してしまった。俺は写真なんか勝手に撮っているだけだし、何がしたいんだろうか。)

 

チェック男:(よーし、次の駅で抱きしめてやろう。電車も運転手さんの制服も愛してるぞ。)

 

声に出して読みたくなるタイトル

昔、さまぁ~ずの三村氏が、コンビ名「ずん」のやすに対して言ったこと。

 

ずんの、やす!

(動画探したけど見つからなかった。)

 

 このブログのタイトル名の由来です。

 

せーの、

 

愛してるぞ!

 

アマチュアこそが愛なのだ。

 「ラヴ」を「無」の意味で使うときもある。たとえば、(お金のためではなく)愛のために戦うとか。これが真の「アマチュア」の定義なのだ[amateur の原義は、フランス語の「愛する者」]。あるいは、何かを「愛のためにもお金のためにも」するつもりはないというのは、どんな状況でもそれをすることはできない、という意味になる。(P.015)

無の本 ゼロ、真空、宇宙の起源

無の本 ゼロ、真空、宇宙の起源

 

 

ぼくは、愛のためにブログをすることに今日をもって決めた。

 

コンピュータ時代の想像力

 ネット界は門外漢、新参者には実に冷たい(3アクセス・・・。)ことが初投稿で分かったので、まともな文章だって書けることをみせつけるためにチャレンジしながら書いていくのである。

最近考えていること

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図1 

  図1のように入力装置(キーボード、マウス、タッチパッド、デジタイザ等)から、出力装置(ディスプレイ)に反映されるまでに「実感できない時間」があることはご存知だろうか。信号のやりとりをするために通信時間が数msあるのだ。だれか、パソコンをぶっ壊して(いや壊しちゃだめよ。分解して検査や測定するのは専門家のお仕事だからね。)オシロスコープで波形をとってみてほしい。もしくはネットで検索してみてください。僕はこの視点をもとに従来からいろいろと語られている「ディスプレイと手紙(≒のところ)」との差異について最近考えている。

 まずは入力装置から出力装置までの「実感できない」時間などというものは意味がない、と切って捨てることができうるのか。僕はできないと考えている。「実感できない」ことを「無意味」だとするなら、自然から放出している放射線二酸化炭素、むかし流行ったサブリミナル効果などをどう説明すればいいのか。実感できなくとも、無意識のうちに僕たちは「何か」を手放していたり、影響を受けているのは言うまでもない。この入力から出力までの数msによって影響があるかもしれない「何か」については科学者の知見が待たれるのだが・・・。(実際にもう発表されていたら、すいませんね。)

 確かにディスプレイと紙の「出力結果」についての差はほぼないといっていいだろうが、例えば、定型文を採用したとして、「鉛筆と紙」と「キーボードとWord」を比較した時に前者は必ず定型文を「毎回書かなければいけな」く、一つとして同じ文章(字体や字面)はないだろう。だからこそ、「人間が書いたものだ」という判断もできうる。逆に後者は「コピペ」が可能で「同じ字体」を連発することができる。デジタイザやマウスが入力(アナログ操作)だとしても必ず、「出力結果(ディスプレイに映る描写)はコピペができ」、同じ出力結果をコンピュータ内で量産することができる。そして見逃してはいけないのはアナログ(紙や印刷した書籍)として出力したもの――ただ一つのものとして出力した時点で同一のものは存在しない(印刷した環境、誰が触れたかで違ってくる、メモのあるなし、経年劣化等)。アナログやリアルの重要性をもっと端的に言葉で述べたいが、力不足も重々承知であるし、論より証拠という格言もあるくらいなので、以下に記しておく。

 

 

ネットはコミュニケーションとしては万能? 

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図2

  次に相手とのコミュニケーションとしてのメディアという観点で考えてみても、「リアルタイムで共有している」と言われるTwitterやLINEのネットワーク間で数ms単位での「遅れがある」(測定したわけではないが通信している以上は「必ず」通信間で遅れがでる)。こう考えると、手紙だろうが、メールだろうが電話だろうが糸電話だろうが、コミュニケーション時は発信する側が「先に言っている」ということになり、同時間を共有していないことになる。(同時にこれらのコミュケーション手段は「非対称性」になっているのであり、情報を先に知っていて先に言ったものが相手を支配できる点もあることをついでに述べておこう。)

 では現在は、同時間を共有していないのに「しているもの」として考えられ述べられているところが多いのでないかと感じる(極めて印象論)。まずはこの手の発想を切って捨てなければいけない。あくまでも、メディア(媒体)であり、そこには「メッセージしか存在しない」ということ。と考えてみれば、先にも言ったが昔もいまもコミュニケーションの方法は変わらないように思う。ともすれば、どうして僕たちのネット間でのコミュニケーションはこうも「成り立ちにくくなっているのか」。(昔は可視化されず今は可視化されている、不特定多数に同時に述べているなどの理由も考えられるが)一つの視点に着目すると、そこには現在のネットは「リアルの双方向コミュニケーションが前提である」ことになっている(ニコ動、LINEなど)が、本当は目の前にいたら言えない「リアル空間」ではなく、実態は目の前にいないから言える「メディア空間」になっているためではないだろうか。この逆さまの状況が様々なところに影響が出てしまっていると思う。相手は自分とは異なる空間にいる人間であるということが忘却の彼方(リアル空間という「前提」のため)になってしまったり、コミュニケーション以前に相手の都合を考えないこと(「実態」はメディア空間のため)もあるのではないだろうか。この逆さまな状況を改善するためにも「リアル空間にいない相手であり、メディアを介している相手」という本当の想像を、たった「数ms」間のコミュニケーションも必要――最近話題となったブログの内容を読んでも相手への想像が欠けている面もあるように感じる――であることが言えるのではないか。

 昔の人々は、数日の間でコミュニケーション手段である「手紙」を介してどれだけ相手のことを考えただろうかと想像するだけでも面白くなってくる。届かないかもしれない不安、きちんと読まれないかもしれない不安。それならせめて、不安を取り除こうと「丁寧に書く」。これがなくなりつつあるのがネットコミュニケーションのようにも同時に思う。

これだけの文章を書いても不安極まりないので科学的なエビデンスもまたまたつけておく。

 

何を言いたいのかよくわからなくなりつつもあるが、ネットから離れてなんでもいいから「物語」を読んで、相手のことをもっと考えなさい、はよ。 

  

あーダラダラ書くのも疲れるアマチュアブロガーの憂鬱。