WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

メディアによる想像力の差 〜〜リアル空間を共有するとは〜〜

これから書くようなことについて、誰かが同じようなことを言っていたら僕の代わりにそのお方に謝罪しておいてください。

ということで、まずは世にあるメディアをなんの前触れもなく列挙していこうと思う。

[TwitterFacebookmixi、個人ブログ、新聞、ネット新聞、テレビ、ラジオ、ネットラジオ、ネットサイト関連]

もちろん、他にもあると思われるが、まあそれは今回の展開ではどうでもいいかと思うのでここで止めておく。そして、もう落ちぶれているのもあるのかもしれないが、それを言うと炎上のきっかけになりそうなので、読んでいただいている方が勝手に想像してみてください。

これらをネタに最近考えていることをつらつらと思いつく限り書いていこうと思う。結論から言うと、メディアと対峙している側が、それぞれのメディアの「場」に対する直感があるのではないか、ということ。つぶやきという視点で捉えるとTwitterだと自然と140文字という制限があるので要約する姿勢になるし、相手のつぶやきに対してもそれを求めてしまう。Facebookだとダラダラと書くか、もしくは「人によく思われたい」(だって、いいね!ボタンほしいじゃん。)一心で書く。ブログはその背景にある「デザイン」によって文章の印象、内容がまるで違うし、一行の文字数やダラダラ書くか、見出しをどうするかの工夫なども変わってくる。それは何か文章表現してあるメディアの書き手受け身の立場は関係なく、そのメディアのデザインに影響を受けているのではないでしょうか。新聞は視界が広くなった気がするし、ネット新聞は視界が広くなるというよりは、一行の見出しに釣られ、知らず知らず読んでいる感じ、と、適当に自分勝手の各メディアの解釈を書いてみたがいかがだったでしょうか。というように、各メディアの差異や違和感を「直感的」に感じることができるのがヒトなのかもしれませんね。

と、ひとまず仮説を立てておいて、

 で、ここからが本題

次に動画を見るという視点を中心にコンピュータとテレビの入力の「違い」によって人とメディアとの関係がどう変わるのかを考えてみたい。

 

メディア | <テレビ> | <コンピュータ>

入力   | リモコン  | キーボード

意図   | 選択    | 選択+表現

 

まずは、コンピュータはマルチタスクで動作しているため、何か動画をみていても他の作業などに気移りがすることもある。そのため、なかなか「一番組」に集中するのが難しい。テレビは「チャンネルによって情報が予め設定されている」ため情報をひとつに絞るような仕組みになっている。なので、一つの番組が始まると集中しているかという如何を問わず、チャンネルを変え「にくい」と思われる。

上記の簡易表のようにコンピュータとテレビとの最たる違いはキーボードなどの入力装置によって自分の思いや感情などの表現ができる(したい人に限り)ということだろう。そもそも、テレビが「お茶の間」として成り立っていたのは、その場にいる家族や翌日に「他人に対して表現をしていた」からであって、ネットの出現によりそのお茶の間がネットという「バーチャルに表現を拡張して」いっているように考えられる。だからこそ、ネットと共に「ひとりでも快適に過ごせる」のかもしれない。(ぼくは割とそうだが、みなさんはどうだろうか。)

 

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図1 

では、以前書いたような展開になっていきそうだが、ネットによって「ひとり」でメディアを介して楽しめるのは違いないと思うが(ネット中毒者増殖中なう?)、図1のように、1人の人間の時間における感情のゆらぎを簡単に波形予測として書いてみた。端的に言うと、リアル空間ではひとりでも笑いや驚き、感動、怒り、呆れなどの感情の「変化」が起きている。

 

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図2

だが、コンピュータを通じたひとりひとりの「複数人」からなるネットコミュニケーションでは、他人と「感情の変化」を共有しようと思っても、メディア空間は「メッセージしか存在しない」ため、変化を知ることができない(図2)。テレビ電話のように動画同士のコミュニケーションでは、「ほぼリアルタイム」と考えてもいいとは思うが、それでも「画面によって」制約があるため、1人の人間全体を通した感情の差異(ほら手の動きとかによって相手の感情の動きが分かるとかいうし?)は分かりにくいと思われる。先のリンク先で述べた延長線上の考えではあるけれど、その変化を「知ることができない」からこそ、相手への想像の欠如が生じ、自分の好き勝手言えているのではないでしょうか。だからこそ、改めてネットコミュニケーションでは相手への想像が不可欠だということを述べておく。また、リアル空間に「複数人」がいる場を想像したとすると、お互いが同時間を共有しているため、そのひとりの感情の変化も同時に共有することができる。そのためリアル空間ではお互いの感情の変化は唯一その場限りでもあるため、共有していた感情の変化の「交換不可能性」が起こり、それがお互いのつながりを強めているのではないかということも述べておこう。

ちなみに、ざっくりとだけど、図1がアナログ波形で、図2がデジタル波形(アナログみたいにくねっているというあんたの指摘はお見通しよ)です。[1,0]のネットの世界なのにどうして「マイナス」が生じるか疑問に思った方もいるのかもしれません。それは『論理回路』の基礎に書いてありますので興味がある方は是非!(という知識自慢もいれつつ)

 

で、結論としては、このブログを書いている僕の「苦悩の変化」は、ネットを通じたバーチャルの世界ではお伝えできないということであり、仮に、僕がコンピュータと対峙しながら苦悩しているリアルな場に誰か他の人がいたら、文章を書きながらの唯一無二の「苦悩の変化」を知ることができ、その「苦悩の変化」をお互いに共有することを通じて僕のことを好きになってくれるということだよ♡

 

どうでもいいが、最近みんなしてコピペコピペって言っているけど、コピー&ペーストって誰か言え、はよ。そして、もし僕のブログの記事がコピペしてあったら、こんな辺境なブログにまで関心があったってことですよね。そんな方のために、愛してるぞ!

 

間違っても⇓の広告をクリックするんじゃねえぞ(一度は言ってみたかった。。。)