WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

技術書を文学的に説明してもいいじゃない。

世のなかにある技術書は固い文章が多すぎる。それではいっこうに、世に拡まっていかない。そこでぼくは、ひとつの文章形態を提案してみたいと思ったので、これから書いていくことにする。じぶんでも、どんな文章になるのか、さっぱり分からずに唐突に書き始めているので、あっちへこっちへ、文章に周期的なリズムなんかあるはずもなく、どういうふうになるのか、設計不可能であることを、先にひとこと言っておきたい。

そして、このシリーズなのだが、技術書をパラパラとめくって、偶然目に止まった、偶然ぼくが伝えたいと思った偶然の文章で、ぼくの偶然の気分次第で、偶然の日に更新していこうと思う。

 

ぼくの手元には偶然(必然なんか存在しない)による運命なのか『光・無線通信システム』というテキストが存在している。この一冊のテキストをどう解釈すればいいのか、とりあえず、中身を読まずに複雑な思いを持ちながら、数分放置してみたが、うーん、それでは一向にラチが開かないではないか、だからといって、読んでいいものなのか分からずじまいだったので、まあ、気分転換でもかねて目次の単語でも眺めてみようと思う。電波ねえ。でんば組とか最近はやっているけど、両方をつなげることなんかぼくにはできやしないしねえしなあ。アンテナ、ワイヤレス、変調方式、光ファイバ、衛生通信、移動通信、と何か引っかかるものがないか見ていっているうちに、ある単語にぼくは興味深く引き寄せられた。その単語は「LAN」。そう、あなたのパソコンとぼくのパソコンが通信するために必要な機能のひとつが、何を隠そう、LANなのだ。ちなみにパソコンのどこかに「配線している」のが有線LANで、電子回路内に組み込まれているのは無線LAN、と区分けしている。前者にはRJ45というお馴染みの規格で、もしあなたのパソコンのどこかにこのコネクタがついているのなら確かめてみてほしい。ここで問題なのが、「なんか通信しているらしい」と思われている無線LANについてだ。ここを今回は掘り下げていきたいと偶然に思った。ここから、あなたの知らなかったことと、ぼくの偶然のテキストが、どこかでつながっていくことを体験してもらいたい。

簡単に説明すると、有線LANから「配線を省いたもの」が無線LANと呼ばれている。そして、有線LANから無線LANにすることによって、伝送誤り率(データ通信の最小単位のbitが送信時と受信時ではズレてしまう)が高くなり、パケット通信方式というデータ送受信時に必要な通信方式を用いることによって、パケットの消失確率(ズレていたbitは破棄される)が高くなってしまう。それに加えて、熱雑音(電子回路は熱をもつものなので)や送受信しているときの波形ひずみによる誤りが加わってしまう。ふう、説明が疲れてきたよ。前もって言っておけばよかったのかもしれないけれど、よく分からない単語や、もう少し詳細を知りたいと思ったときは、ネット検索か、実際にテキストを読んで確認してね♡

というか、こんなペースで説明していると、文字数だけが、どんどんどんどん増えていってしまうのではないか、というか、こういう無駄な戯れ言ですら、文字数加算に一役買ってしまっているのだ。そんなことを言う暇があったら何か説明してほしいだと? うるさいよ、あなた。これは、ぼくの気まぐれで文章を書いているのであって、あなたの要望を叶えるものではないのだよ。さて、テキストを読んでいても、文学的に説明できることがあまり書いてないという問題もでてきたがね。この課題は、意外にも難しいよ。というか、文学的に説明しているという前提になっているが、果たして出来ているのだろうか? そもそも、文学的とはいったいなんなのだ? デカルト先生やマルクス先生みたいに、全部を疑ってかかりながら、文章を書き始めていると、ぼくの頭はパンクしちゃいそうだよ。そういえば、無線LANにはIEEE(アイトリプルイー)802.11という規格を使っているんだった。興味があったら、お使いのパソコンのスペックをPCメーカのサイトでもいって調べてみてほしい。・・・・

そう、それが、あなたの使っているPCの無線LANの規格なのである。

ここのブログの文章は学校での課題でもなければ、テストも一切ない。なので詳細は各々が勝手に調べてくれればありがたいので、もうこれ以上書くことはないし、どう終わりに収束していけばいいのか、じぶんでも分からなくなってきたので、 まあ、今回は、無線LANと有線LANがあることが分かってくれて、なおかつ無線LANは便利だけど、デメリットもあることも分かってくれたらこのブログを書いているぼくとしてはうれしいよ。

 

というか、このシリーズは書いていて楽しいので、続きそうな予感だったよ。仕事からときはなれた人の文章は、何かを超越してくれるのかもしれないね。

 

よーし、次も何か偶然性を利用して書いていくぞ。またいつか、ぼくが偶然に書きたくなった日にでも更新するので、そのときにでもお付き合い頂いたら幸いです。

今回は結局なにも説明していないではないか、という指摘もあろうが、まあ、模索中のブログですし、なんでもこちらの好き勝手にやるので、お許し頂けたら幸いです。

 

 

最近の悩みは、「愛は無線で構築できるのか?」ですね。

 

学歴なんかどうでもいいけど、権威が嫌い。

最近、あらためて学歴について考えていたんだけど、正直「学歴社会」についてはどうでもよいと思ってはいる。(ちなみに、工学内では学歴による差はある程度は仕方がないと以前ブログで書いてもいる。)他の分野についての「学歴社会」については、よく分かっていないから、このブログには今回は書かないけど、以下の文章にやんわりと含ませていくつもりでも同時にいる。

「学歴社会」についてどうでもよいとしても、その「学歴」が「権威」に転じるときにぼくは途端に苦手(というか、すげえ嫌い)になるし、その「権威」さえなければぼくは学歴に対してなんとも思わなくなるような気も同時にしてはいるし、そんなくだらない「権威」を振り回すくらいなら、もっとその「学歴」を用いて別の場所にエネルギーを使ってほしいとも。

なので、学歴あるなし関係なく「いま」頑張っている人や、何かに秀でている人からは何かを学べるところもあるだろうし、逆にその「学歴」が「権威」に転じた瞬間や、ことさら「学歴アピール」する人は途端に自己保身に走るような気もしているし、それ以後「学ぶ意思」さえ無くなるかなと考えてもいる。だって「権威」を保つためには、「失敗は許されない」からね。

ぼく自身、学歴はてんでないけど、専門分野を仕事にしていたり、個人的に学んでいたりしている分、専門分野について深く分かるようになればなるほど、将来にわたって「権威」になるおそれがある。

なので、ここに、じぶんへの愛の戒めということで、記しておく。

学歴界隈の話は大変面倒で、上記を読んでもらえれば分かると思うけど、だれも、あなたに言ってない。

(このことを考えているうちに、ついさっき公開した吉本隆明氏についての文章も考え始めたので、そこになにか因果関係があるような気もするし、ということで、あくまでも「学歴について」ではあるが、公開しておく。が、最近なにもかもどうでもよくなっているので、ツイッターなどに流さずにこっそりとだけど。)

吉本隆明について28歳男性によるログ。

これから妄想の文章を書いていくけど、そこに真実はないのかもしれないが、ぼくにとっては書かないといけないように思えてきたので、なんの影響力もないブログという場で、簡単にではあるが以下に吉本隆明氏について書いておこうと思う。(本の内容について述べる気は今回はなく、そういうのはいろいろな著書があると思うので、そちらを参照願う。)

 

では、唐突ではあるが、書き始めよう。吉本隆明氏の文章が知識層(ここでは、作家、学者、批評家、思想家あたりが対象かと)に読まれたのは、おそらく エリート生まれでもなくエリート育ちでもない立ち位置から文章を書いていたのと、知識層からみたときに、あまり身近ではない労働者としての経験や、あまり世に知られていない理工系の知識、これらが文章の前提として詰まっていたからだろうなとは思っている。(全集6でもメディアについて論じている文章があるが、その文章に如実に表れているかなと。)それがたとえ「専門家からみたとき」に見当違いな文章を書いていたとしても、前述した前提があるため読まれ続けたのではないだろうか。(他にも要因があるのかもしれないが、ひとつの読まれ続けた要因ではあるかなと。)

 

それと、当人は、前述した前提があるため「大衆」という立ち位置をとっていた(らしい)と思うが、「大衆」はだれも読んでいなかっただろうなと同時に思う。

ぼくが「大衆ではない」といいたいのではなく(むしろ、その辺にいる普通の労働者かなと)、ぼくの周りに「吉本隆明」を知っている人なんて本当にまれで、読んでいる人なんて皆無に等しい(って、ぼくが読んでいるから特別だと言いたい訳ではないからね)。

むしろ、本とか文章を書いて読者に向けている時点で「大衆」は読まないし、1億人以上いるこの国で、せいぜい読んでいても数万人であろうと思う。いったい大衆はどこにいるというのだろうか。そして、テレビやCM(現状はマスはテレビしかない。)を論じていたみたいだけど、論じるという行為そのものは「大衆」にはなりえないし、そして書かれた文章を誰が読むのかということを考えると、火を見るよりも明らかではある。

 

女性はある面では、マイノリティであるかもしれないが、ある人にとっては強者であるように、

男性はある面では、マジョリティであるかもしれないが、ある人にとっては弱者であるように、

吉本氏にとって、大衆は身近なものであったのかもしれないが、ある面では強者であるように。

 

 

吉本隆明全集〈7〉 1962-1964

吉本隆明全集〈7〉 1962-1964

 

 

今回できたか分からないが、思想家と呼ばれていた方々の「信じられていた箇所」を解きほぐしていくことが、後世に生まれた者の意義なのかもしれない。という、分不相応なこともログとして書いておく。

 

 

以上、テレビに愛を持って接している男でした。ちゃんちゃん。

「愛とブンガク」のゆくえ。

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鎌倉文学館で開催している、特別展「愛とブンガク」に行ってきた。

あまり文学について詳しくないぼくでも、展覧会をひとまわりすれば、なんか日本の文学を全部知った気になれる展覧会でしたね。 

そして、文学の愛のゆくえはどうなのか、というと、

<展覧会を鑑賞し終えて帰路の場面>

パート1

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パート2

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みなさん、愛し合っていて、まだまだ愛のある文学は健在みたいでしたね。

おしまい。

ネットに振り回されるんじゃないわよ。

 

2012年5月にfecebookに書いたノート(多少加筆あり)

 

でも、最近思うけど、

ネットって「成功者」や 「面白い人」の話を簡単に知れたり、

あたかも繋がっているように感じてしまうけど、

そことの「距離」は絶望的という程あるよね。 

ここに出ている(なんかニコ動かなんかみた感想だったと思う)

出演者も今でこそ、好き勝手やれてるけど、

そこに至るまでの積み重ねというものがネットでは、

すっとばされる印象があるなぁ。 

やっぱり出来ることを、小さいことでも続けていくことが大切で、

もっと言えば、変に「憧れないこと」「追わないこと」が大切なのかな。

 

なぜ起きるのかをじぶんなりの目線で考えてみる

なんでこういう現象が起こるのかを、じぶんが技術者なこともあるので、

そういった目線から考えてみたので簡単に書いてみます。

つまり、ネットの世界はコンピュータだから「0」か「1」で 成り立っている訳ですが、

こういう「成功者」の方々は、みなさん「1」なんですよね。

それなのに「0」であるはずの人たちが、みんな「1」になれるとばかりにそちらのほうばかりみている。

 

簡単に見れる、知れる、繋がれる、お金も、それまでの知識の積み重ねも必要がない。

つまり、ポンッと「1」を知ってしまう。

(僕みたいに。もちろん、いい面もあるとは思うけど。)

僕たちは所詮0.XXXX・・・・なわけで。

じゃあ、そこで「1」になるためには、ほんとパラドクスなんだけど、

0.999999999999999999999・・、

と、どれだけ努力しても、このように限りなく無限に続くので、

 それを「1」にするためには、「運」が絶対的に必要で、

そんなことはほとんどの人は無理だというわけだわさ、ね。

つまり、ちゃんと「アナログ」という名の、現実をみよと。うん。

と、じぶんに言い聞かせているのであった。

 

(意識が高いころのじぶんの文章でした。。。)

いまも愛の意識は高いんだけどねーだ。

 

 

無限論の教室 (講談社現代新書)

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