WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

吉本隆明について28歳男性によるログ。

これから妄想の文章を書いていくけど、そこに真実はないのかもしれないが、ぼくにとっては書かないといけないように思えてきたので、なんの影響力もないブログという場で、簡単にではあるが以下に吉本隆明氏について書いておこうと思う。(本の内容について述べる気は今回はなく、そういうのはいろいろな著書があると思うので、そちらを参照願う。)

 

では、唐突ではあるが、書き始めよう。吉本隆明氏の文章が知識層(ここでは、作家、学者、批評家、思想家あたりが対象かと)に読まれたのは、おそらく エリート生まれでもなくエリート育ちでもない立ち位置から文章を書いていたのと、知識層からみたときに、あまり身近ではない労働者としての経験や、あまり世に知られていない理工系の知識、これらが文章の前提として詰まっていたからだろうなとは思っている。(全集6でもメディアについて論じている文章があるが、その文章に如実に表れているかなと。)それがたとえ「専門家からみたとき」に見当違いな文章を書いていたとしても、前述した前提があるため読まれ続けたのではないだろうか。(他にも要因があるのかもしれないが、ひとつの読まれ続けた要因ではあるかなと。)

 

それと、当人は、前述した前提があるため「大衆」という立ち位置をとっていた(らしい)と思うが、「大衆」はだれも読んでいなかっただろうなと同時に思う。

ぼくが「大衆ではない」といいたいのではなく(むしろ、その辺にいる普通の労働者かなと)、ぼくの周りに「吉本隆明」を知っている人なんて本当にまれで、読んでいる人なんて皆無に等しい(って、ぼくが読んでいるから特別だと言いたい訳ではないからね)。

むしろ、本とか文章を書いて読者に向けている時点で「大衆」は読まないし、1億人以上いるこの国で、せいぜい読んでいても数万人であろうと思う。いったい大衆はどこにいるというのだろうか。そして、テレビやCM(現状はマスはテレビしかない。)を論じていたみたいだけど、論じるという行為そのものは「大衆」にはなりえないし、そして書かれた文章を誰が読むのかということを考えると、火を見るよりも明らかではある。

 

女性はある面では、マイノリティであるかもしれないが、ある人にとっては強者であるように、

男性はある面では、マジョリティであるかもしれないが、ある人にとっては弱者であるように、

吉本氏にとって、大衆は身近なものであったのかもしれないが、ある面では強者であるように。

 

 

吉本隆明全集〈7〉 1962-1964

吉本隆明全集〈7〉 1962-1964

 

 

今回できたか分からないが、思想家と呼ばれていた方々の「信じられていた箇所」を解きほぐしていくことが、後世に生まれた者の意義なのかもしれない。という、分不相応なこともログとして書いておく。

 

 

以上、テレビに愛を持って接している男でした。ちゃんちゃん。

「愛とブンガク」のゆくえ。

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鎌倉文学館で開催している、特別展「愛とブンガク」に行ってきた。

あまり文学について詳しくないぼくでも、展覧会をひとまわりすれば、なんか日本の文学を全部知った気になれる展覧会でしたね。 

そして、文学の愛のゆくえはどうなのか、というと、

<展覧会を鑑賞し終えて帰路の場面>

パート1

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パート2

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みなさん、愛し合っていて、まだまだ愛のある文学は健在みたいでしたね。

おしまい。

ネットに振り回されるんじゃないわよ。

 

2012年5月にfecebookに書いたノート(多少加筆あり)

 

でも、最近思うけど、

ネットって「成功者」や 「面白い人」の話を簡単に知れたり、

あたかも繋がっているように感じてしまうけど、

そことの「距離」は絶望的という程あるよね。 

ここに出ている(なんかニコ動かなんかみた感想だったと思う)

出演者も今でこそ、好き勝手やれてるけど、

そこに至るまでの積み重ねというものがネットでは、

すっとばされる印象があるなぁ。 

やっぱり出来ることを、小さいことでも続けていくことが大切で、

もっと言えば、変に「憧れないこと」「追わないこと」が大切なのかな。

 

なぜ起きるのかをじぶんなりの目線で考えてみる

なんでこういう現象が起こるのかを、じぶんが技術者なこともあるので、

そういった目線から考えてみたので簡単に書いてみます。

つまり、ネットの世界はコンピュータだから「0」か「1」で 成り立っている訳ですが、

こういう「成功者」の方々は、みなさん「1」なんですよね。

それなのに「0」であるはずの人たちが、みんな「1」になれるとばかりにそちらのほうばかりみている。

 

簡単に見れる、知れる、繋がれる、お金も、それまでの知識の積み重ねも必要がない。

つまり、ポンッと「1」を知ってしまう。

(僕みたいに。もちろん、いい面もあるとは思うけど。)

僕たちは所詮0.XXXX・・・・なわけで。

じゃあ、そこで「1」になるためには、ほんとパラドクスなんだけど、

0.999999999999999999999・・、

と、どれだけ努力しても、このように限りなく無限に続くので、

 それを「1」にするためには、「運」が絶対的に必要で、

そんなことはほとんどの人は無理だというわけだわさ、ね。

つまり、ちゃんと「アナログ」という名の、現実をみよと。うん。

と、じぶんに言い聞かせているのであった。

 

(意識が高いころのじぶんの文章でした。。。)

いまも愛の意識は高いんだけどねーだ。

 

 

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

 

 

スケッチ 3

 

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またまた描いてみた。

ツイッターのアイコンであるが、赤ちゃんではなく、じいちゃんになっている感じ。

髪を濃くしすぎたせいかもしれない。。。

(濃くないバージョンも追図してみた。あまり変わらない。。。)

(またまた追図してみた。試行錯誤しているうちに、どんどん写真に近づいて行って、じぶんでも恐い。。。)

 

絵の愛もほどほどにね。