WebのLog.

愛に燃えるブロガーになる。

スケッチ 1

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昨日に引き続き本日も風邪を引いてしまったため、会社を休み、家で横になりながらダビンチを見習って左手を描いてみたのである。

中坊の頃、手の絵だけは先生に愛をもって褒められた経験があるので、そういえばと思い、久しぶりに描いてみたら素人にしては上出来な出来映えになったので、ここに投稿することにした。

 

じぶんの手をたまには眺めて愛してみるのも、これもまた一興。

現代技術を半世紀以上まえから読みとる。

まずはSF小説の簡易年表を以下に示す。

 

1920年ロボット

1922年『絶対製造工場

1934年『山椒魚戦争

1949年『一九八四年

1950年『われはロボット

 

誰もが知っているこれらの有名なSF小説で「技術の拡散」というテーマでもう一度紡いでいきつつ現代と照らし合わせながら語ってみることにする。また、ITとロボット技術が混在している点もあるが、googleに代表されるように、ITをロボット技術に活用しはじめているのでその差は関係ないものにした。

では、『ロボット』『山椒魚戦争』『1984年』といった(他にもあると思われるがぼくの部屋にあったものに限定した)技術やロボットが人間に対して支配して破滅していくというディストピア的なSF小説の流れから、アイザック・アシモフが『われはロボット』というSF小説のなかでロボット工学三原則を考えたのは割と有名な話であろう。(このあたりの情報はロボット工学三原則 - Wikipediaにも書かれてあるので是非お読みを。ぼくも読んで再確認したが・・・。)

 

現代においてもアシモフの提言に近いことに対して熱心に語っている方の動画があるので紹介しておく。技術やロボットとの付き合い方についていろいろ考えたりすることができるので、GWでもあるし時間に余裕のある方はどうぞ。(はい、ぼくです。)

 

ぼく自身も上動画に同意するし、こういったことは「確実に伝えていかなければいけない」。それこそ判断を誤ると、本当にディストピアの世界になってしまう恐れもあるのではないだろうか。

この流れから『山椒魚戦争』から一節を取り上げておきたい。

人間には、自分たちに役立つものはさておいて、自分たちに害を与えたり、危険なものを神秘化する傾向がある。(P.250)

 

その一方で、現代においてネットワークというものが世界に張り巡らされているため、世界と簡単に接続することができる。と同時に『絶対製造工場』に描かれているように、「絶対の拡散」による人々の「癒しの拡散」も徐々に拡がっているのでないかと考えているので例を取り上げていくことにする。

現在日本から世界に広がりつつある技術ではパロ」、初音ミク」(過去ブログも参照願う)らに代表される。これらの技術は(超越とは言い過ぎだったかもしれないが)、孤独を癒やす手段としての技術(≒宗教に近いのではないだろうか)として考慮にいれることができると思う。

「パロ」は下記の動画でも紹介されているが日本以外でも売られはじめているし、去年某首相にも紹介していた(リンク先)りしているため、世界でも広がりをみせていくのではないだろうか。(何よりもかわいいので♡)

 

初音ミク」に関していうと、最近でもニコニコ超会議で「超ボカロキャラで握手会、初音ミク」という初音ミクちゃんと握手までできる技術まで開発されてきているし、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』という著書においても、従来のポップ・ミュージックと初音ミクを接続しようと試みる刺激的で興奮を免れない内容になっていたりもする。この著書のなかには、米国トヨタのCMで初音ミクを起用したり、パリのシャトレ座でオペラ公演をしていたりといったことが書かれ、世界の音楽の流行になりつつあるのかもしれない事実(というか、なっている?)を示している。また、初音ミクYouTubeというインターネットプラットフォームと相性もいいためきっかけさえあれば拡散も速いということも考慮に入れておきたい。

 

今回、あえて超越という視点で語ってみるという「思いはあった」が、『社会は情報化の夢を見る』という著書を読んでから超越などの単語を「本心から信じていない」のに使用するのは控えようかなと・・・(だとしてもずっとぼく自身の考え続けるテーマでもあるが)。そして、この著書には以下のように書いている箇所がある。

「技術は神ではない。技術が人間を救済することはできないのだ。・・・・・・人間を救済できるものがいるとすれば、それは人間自身なのだ」(P.308)

ネットワークの発達、技術の発展は人間によってもたらされていることではあるが、技術の拡散の影響も含めて、人間の癒しを「技術」に求めはじめている現実――たった2つの例ではあるが――も確かにある。なので、技術によって救済できる物事があることを「少しは考慮に入れ」はじめてもいいのではないだろうかとも同時に思う。

 

『絶対製造工場』に描かれているように技術者の困惑――技術以上のことが拡がってしまう――に目を向けて「しょせん道具」として捉えていくか、はたまたそれを超えていくものがある――夢のある世界が将来に拡がっている――と信じて突き進めていくのか、ぼくたちはこれからも技術と共にするなかで日々の決断を余儀なくされている。

 

 

 

ロボットのおへそ (丸善ライブラリー)

ロボットのおへそ (丸善ライブラリー)

 

 

 

ロボットとは何か――人の心を映す鏡  (講談社現代新書)

ロボットとは何か――人の心を映す鏡 (講談社現代新書)

 

 

 

愛のあるロボットとは何か? という問いも同時にみつかったような気もする。

 

 

 

ネットに愛を取り戻せるのか。

現在のネットの状態を誠に勝手ながら分析させていただきます。

 

ネット黎明期からネットに取り組んでいる方々は、「ネット黎明期である」という恩恵を受けてきた方を中心に、ある程度いま現在は自由になり、様々な点において融通も効くようになってきているように思う。

そうなってくるとその方々にとって「ネットの面倒さ」ばかりが目立つようになってくるため、ネットに見切りをつけはじめ、どんどんネットから離れていっているように感じる。

 

ネット安定期に入る

それらと並行して――ネット黎明期から取り組んでいる方が抜けつつあるなかで――「ネットの面倒さに屈しない人」たちばかりが目立つようになり、そういうふうにネットで目立っている人たちってどうなのよ、と感じる人たちも増え、「友人とだけでやりとりしていればいいか」という安定志向に入り(それでも暇をみつけてはネット内での憂さ晴らしは継続中ではあるとは思う)、ネット全体が落ちつき始めてきているように思う。

こういったネットの現実をみんなが知るようになりはじめ、「ネットがなかった頃の状態に戻っていく」――バブルはじけるちょい前くらい?――とともに、大企業志向も高まってきているのかもしれませんね。(なんの因果関係もないけど。)

 

いまある現実を我関せずの状態でひとり虚しく「ネット黎明期のような感じ」で取り組んでいるぼくみたいな人間は、誰からも相手にされず、悠々自適に好き勝手ブログ&ツイッターで言えるというわけですね。。。♡

仕組みから考える音楽

これから書くことは中学校卒業以来、まともに「音楽」について触れたことがない人間が書いているという前提のもとお読み頂ければ幸いです。つまり音楽に関しては中学校卒業レベルだということです。

そうだとしても、工学を少なくとも仕事にしている身としては、「音楽の仕組み」については言えることもありますので、その点を踏まえながら書いていきます。

 

そして、ここから文体が変わるのでお断りしておく。

このツイート先の文章を読んで、工学的な視点で思いついたことがあるのだが、だらだらと書くのはあまり得意ではないため、またまた図を用いてそれを説明する形式を取りたい。 

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図1

現在、僕たちが聞いている「音楽の形式」は図1のようになっている。

[1,0]のデジタル情報を変換し、増幅回路を通じてスピーカで出力している。そのスピーカから出力されている空気の振動によって、僕たちの耳の鼓膜も連続的に振動することにより「曲」として感じている。このような理屈があるという前提の上で僕たちは「音を楽しんでいる」。(詳細についてはリンク先を参照願う。)

ちなみに、デジタルスピーカなるものがあるらしいが、このあたりについても興味のある方はぜひ勉強してみてほしい。(特に僕は勉強しないといけないなあ、と感じつつこのブログでメモ。)内容を読む限り、デジタル信号を変換せずに直接スピーカに出力させているのがデジタルスピーカらしいのだが、従来のスピーカと同じく出力した先は「空気の振動」というアナログを僕たちの身体(鼓膜)が感じているので、さほど内容には関係ないかと思われるが一応述べておく。

 

次に、昔からステージとかで聞いていると思われる「楽曲」についてはどうなのかというと、結局のところ何も現在と「仕組み」は変わらないのではないか、という結論。(図2

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 図2

 

楽譜に書かれている「情報」はあくまでも「符号」であり([1,0]のデータではないが、連続的な情報でもないため、仮に「デジタル情報」と呼んでもいいかと)、それを読み取る人間とピアノなどの楽器を通じて「アナログ出力」することにより、人間が音楽を聞いているという仕組みだと考えられる。この仕組みの概要は図1と同じだと思うが、コンサート会場などのステージでは何が違うのかというと、アナログに変換するのは「人間である」ため、取り返しのきかない一過性でありその場限りのハーモニーが会場を包んでいるということだろう。

とすれば、音というのは先にも述べたが「物体(空気)の振動」なので、空気の他にも音の発生源と面してさえいれば地面や壁という「物体」をつたって遠くまで響いている。そのため、おそらくコンサート会場などでは、緊張感や緊迫感、熱気などの「曲以外の空気の振動」――こちらの「空気」は比喩――まで会場で共有していることになっていると思われる。(って、僕は共有が好きだなあ。。。) 

言いたいことはここまでなのだが、少し展開を変えて踏み込んでみたい

では、最前線の音楽と言われている(?)初音ミクに代表されるVOCALOIDでも音符情報を取り込んでいる(詳細はリンク先)ということなので、人間の「変わりに」機械が「処理をしている」だけであって、仕組み的には何か新しいことはないように考えられる(炎上はまぬがれない?)。そんな単純な仕組みのはずが、「なぜ初音ミクによって人々を熱狂させ続けることができるのか」、という問いを立てて考えてみると、コンサート会場で初音ミクを聴かせ続けていても「機械の動作」のため失敗は「絶対に」しない。そこに聴衆が「人間を超える完璧なもの」を初音ミクに求め、ある種の超越をコンサート会場で共有することにより、そのコンサート会場での熱狂が起こるのかもしれない。

先のツイートのリンク先に「音楽作品は自然を模倣すべきもの」や「声や音は自然のものであるが、音階や言葉はそうではない(人間の文化である)」と書いてあるが、この初音ミクの仕組みではなにもかも機械――音声は人間の言葉であるが、合成することにより「ひとりの人間ではなくなっ」てしまうため機械の音声に違いない――が行うことにより、この2点の前提が崩れ、自然の音楽ではなく「機械の音楽」(まあこれも「人間の文化」と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが)になっているように思う。つまり、ひとりの人間ではないはずが、「ひとりの人間かのように振舞っている」ところにこそ「宗教性」を感じ、超越を垣間見てしまうのは僕だけだろうか。

 

 

話をすこし戻すと、文明の発達にともない機械も発展していくなかで「個、パーソナル」で楽しめるようになってきたと思う。そのことに対して、ささやかながらも抗って、リアルな場の共有の重要性をこのブログで述べていきたいのかもしれない。という、「ひとりで」このブログを書きながらのリアルな場を共有したいがためのリハビリ文章でした。

 

愛は自分にもときどき向けるんだぞ!

 

 

絶対製造工場 (平凡社ライブラリー)

絶対製造工場 (平凡社ライブラリー)

 

 

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文化系のための大企業講座

ということで、電機・製造業の「大企業」における、学歴に対する職業を以下に記します。

 

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現状を俯瞰してみるとこのようになると思います。

なので、僕自身を鑑みてもですが、「工学内の学歴では差別はあってしかるべき」です。むしろ熟練度において仕事を割り振るので、工場を抱えている大企業についてはとくに揶揄をしているつもりはないです(僕も選べば時代的に入れました)し、同じ技術者同士でどちらかというとみんな「仲間」みたいな感じがあります。ですから、特に「大企業に入りたかった」とは思ったことは一度もありません。(いやあるかなあ。。。)

 

ですが、「文系が主に入るといわれる大企業」は、下図のようになっていると思います。

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これに対してはTwitterで僕自身の経験もあって、揶揄の対象にしていました。

(というよりも、揶揄4割、冗談4割、問題提起2割くらいのつもりではありました。もうぼくにとっては過去のことで終わっていることですので、適当につぶやいていたつもりではあったのですが。。。)

 

正直、不注意だったかなと思います。でも、僕より「馬鹿な文系」が「文系の大企業」に勤めているのとかをみたりすると、書類で落とされた僕としては文句のひとつも言いたくなりましたが(友だちがいないので、Twitterでのみですが。。。)、もう今日をもって「文系の大企業」の意味不明な採用理由(やっぱり現状の「日本の文系の大企業」の仕組み――新卒一括採用――では差別しかないと思われます。)については何も語ることをしません。以上です。

 

愛を保つので必死な今日このごろ。